ノート201801#2 作品・状況・問題

作品はどうしてこういう風にしか問題にならないのか。そもそも「問題」というのが違うのか・・・
作家は状況論をやっていても話(仕事)にならない。作品を「状況」の中に置き直すのは評者の仕事。また、面白いから状況に置けるのであって、状況に置けない作品がつまらない/置ける作品が面白いという事はない。

ノート201801#1 既視感

既視感を感じさせない作品が、改めて振り返ってみて新しいものに満ち溢れているかというとそういう事はない。新しいと主張出来るところがない事もないが、概念操作で新しいと主張出来るような新しさなら既視感だらけの作品にもあるだろう。既視感を感じるかどうかは、見ている対象の道具立て(「要素」に分解されるような)とは関係がないのだと思う。

2017年 良かった文


2017年のテレビアニメ ベスト


細かいコメントは各ツイートのスレッドをご覧ください(スレッド化してるツイートの個別埋め込みがうまくいかない…)

繰り返し見る・読む・聴くことの価値

「見る・読む・聴くたびに〈発見〉がある」から「再読(再視聴)の価値がある」作品だというような言い方が好きではない。それ(作品)を見る・読む・聴くという体験に含まれるある「こと」が再体験によって立ち上がる(「こと」を再読によって立ち上げる)ことに再読の価値があるのであって、〈発見〉という、体験の不定形に耐えきれずに作品から静的な(死んだ)要素(それは例えば「問い」に代表される)を抽出して作品と等価においてしまう、惰性の翻訳行為のために再読(再視聴)というものがある訳ではない。

画面が「繋がっている/繋がっていない」「もっている/もっていない」

青山真治が対談で最近の大河ドラマを画面が全然繋がってないと言っていてどんな基準で言ってるのか気になってしまった(「誰が誰を見てるのか分からない」という基準はひとつ挙げられているのだが、どうもそれだけではない気配が漂っているのだ…)のだが、万田邦敏木下恵介の映画について画面の繋ぎが全く気持ちよくないので好きになれなかったという事を言っている評論にて、「画面が繋がっている/繋がっていない」ことの基準に関して「気分で測って許される事ではないが、かなりの部分、気分である事も確かだ」という趣旨の事を言っていて、頗る感覚的な部分を基準にしているのだなあと思ったと同時にその潔さに嬉しくなってしまった。
「画面が〈繋がっている/繋がっていない〉」に近い言い回しで、「画面が〈もっている/もっていない〉」というのもある。
青山真治の映画にも万田邦敏の映画にも最後まで「画面がもっている」感じがある。なんだか基準はよく分からないが画面が「繋がっている」「もっている」ことに敏感に反応している人たちが撮っている映画が、なんだか基準はよく分からないが画面が「繋がっている」「もっている」感じがする映画になっているという事実は頼もしいものがある。