「好き」とは違う何かで…(「文学の強み」・乗り物・大江健三郎・笙野頼子・後藤明生)

昨年NHKの100分de名著で大江健三郎「燃え上がる緑の木」が取り上げられていた。番組のように掻い摘んで解説されると「一体何が面白いんだ…」となってしまう作品なのだが(見れば見る程「大江なら普通に万延元年のフットボールなどでやっておけば…」と思ってしまった…諸々の事情によりそうもいかないのだろうけど)、大江作品の良さはもとより文学の強みのようなものを印象づける「とある部分」を含むがために、自分は好きな作品だ。

第三部前半、語り手のサッチャンが作品の一時的に作品の舞台となる伊豆からメインの舞台である四国の谷間へと帰ってくる一連の流れがその「とある部分」だ。サッチャンは、羽田から高知へ航空機→高知駅からバス→乗り合わせた女性客が嫌になって下車→歩いているうちに知人のトラックに遭遇→トラックに搭載されていたバイクへ…と、様々な乗り物を乗り継いで谷間へと帰還していく。

決して小気味よくとはいかない大江の文体と次々と外部に対する露出度の高い乗り物へと乗り換えていく過程のせめぎ合い、バス車内の少しユーモラスな「イヤな感じ」、トラックに搭載されていたバイクが荷台にではなく”運転台の後ろの風除けの下の箱型の部分“に載せられていたという描写、そしてこの帰還の過程が作中で触れられる魂の「上昇/下降」「右廻り/左回り」のモチーフと重なっていることも含めて、大江作品の一般的なイメージには無い、だが読んでいる人は知っている「そこに乗り物が現れた時の大江作品の魅力」(大江作品で乗り物が重要なモチーフになっていることは多く、例えばバスは大江作品で常に不穏な空気を漂わせている)が詰まった素晴らしい部分だ。大江作品が余程好きでないと手を出さないように思える大長編の後半でこの部分に出会えるという喜びも大きい。

乗り物といえば、笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」はそのかなりの部分が写実的というにはあまりに浮遊し、幻想的というにはあまりに湿っている(この絶妙なバランスこそが笙野頼子の小説の味だ)電車の車窓の描写で占められている。他の代表作「二百回忌」も鉄道に繋がりが深い。

大江健三郎笙野頼子…この二者が特別乗り物が「好き」かといえば、両者の作品をそれなりに読んできた自分としては、そんな事はないように思える。ただ両者の、乗り物の周りにある描写には単純な「好き」を越えた何かが渦巻いているということだけは言えるのではないか。そして、上で挙げた両者の小説の記述は、その表現そのものに加えて、それがある長さ・広がりをもった「小説」の中にある言葉である事によって(「燃え上がる緑の木」の帰還の過程が作中の他の部分のモチーフと関わっていたように)、「好きな人が好きなことについて書いた」文章と違う何かを提示する文章として存在している。文学は「好きでもないもの」について書くこと、「好き」とは違う「何か」で成立させる事が出来る。それが文学の強みだと自分は思う。

後藤明生の小説には「特別詳しいという訳ではないが」「特別好きという訳ではないが」式の前置きが頻繁に出てくる(“私は、いわゆるクラシック音楽愛好家ではない”ー「マーラーの夜」)。代表作「挟み撃ち」には自分が歴史的知識に疎く、知識を得ようとする努力さえしようともしない人間であるにも関わらず、なぜ名所旧跡の類を無視する事が出来ないのかを追究する一節がある。単純な「好き」とは違う、それでいて無視することの出来ない「何か」の周りをめぐるこの小説は、自分が読んだ日本の小説の中でいちばん好きな小説だ。