瀬戸際の文章(印象に残る冬・古井由吉の文章)

 一昨年もその前の年も首都圏に印象に残る雪の降った冬だったので、雪の気配のなかった去年の冬(2019年1月2月)は少し物足りないものだったが、今年の冬(2020年1月2月)は雪の気配どころか自分が上京してから恐らく最も暖かい冬になった。逆に寒いことで印象に残っている冬は2006年の1月2月で、毎年冬の度に思い出すという自分の中である基準になっている冬(こんな事で驚いていると寒い地方の人に笑われそうなのだが、外の洗濯機置き場の水が凍って出てこない日があって驚いた)なのだが、年数まで思い出すことが出来るのは作家の古井由吉氏が「辻」(2006年初版)の出版記念公演でその年の冬の話をしていたからだ。
 今年の冬もちょうどその事を思い出していたところ、古井氏の訃報が入って来た。自分に寒い冬を印象づけた作家(「雪の下の蟹」という、大雪を印象づける作品も持つ)が、暖かさで印象に残る冬に亡くなった。文芸誌のインタビューにて氏は、花(桜)の咲いている季節は休むことにしていると言っていた気がする。その桜の季節の目前のことだ。
 氏の文章はなかなか言葉にされる事のない、また、する事が困難な「間」(あいだ)(これまで簡単に言葉にされてきた「あれ」と「それ」の「あいだ」という意味での)の感覚ともいうべき微妙な感覚を描こうとする、無二のものだった。その分読者に与える負担も大きいものだったと思う。自分など、読む度に毎回ぐったりとし「もうしばらくはいいな」どころか時には「もういいな」ともなりつつ、少し経つとやはりあの無二の感覚を味わいたくなり、気づけばその著作をまた手に取っていた(自分は「杳子」のような男女関係が絡む作品はあまり得意ではなく、中~後期の「山躁賦」楽天記」「白髪の唄」のようなエッセイ要素が入ってくるものの方が好き。初期なら「先導獣の話」や「円陣を組む女たち」が素晴らしい)。
 氏の、特に作家歴が進んでからの文章はその無二の凄み・異様さは一読で感じられるものなので世評も高かったが、その評価のもとに読者が安住出来るような性質のものではなかったと思う。自分も初めて氏の文章に出会った時はその文章に酔い(この文章を書く人間が生きているという事が信じられず、何度か講演にも出かけた)信奉者となったものの、やがて単に酔っているだけでは文学に向き合えなくなってきた時、その文章は読者が「覚め」に振れたときに不安定な拠り所しか残さない、心もとないものにも思えてきた。
 「間」(あいだ)の感覚を描く、そのために「酔い」と「覚め」の「間」に読者を置くこの文体が伴ってくる。だがそのために、ここまで行ってしまわなければならないものなのか。読者をここまで連れていかなければいけないものなのか。それは許されることなのか…
 「果たしてこの文章は許されるのか」すなわちこの文章は「アリ」か「ナシ」か…そしてさきに触れた「酔い」と「覚め」の「間」…氏の文章はさまざまな境界にその読者を置き続ける「瀬戸際の文章」であり、それ故にラディカルと言うに相応しいものであり続けたのだと思う。その文章が描出する「間」(あいだ)を漂い続ける自由が、読者には残された。