「何かに〈ついて〉」考えるという事が全て「違う」のかもしれない(ノート201802#1)

ポプテピピックでパロディとはなんだろうという(パロディと一口にいってもいろんなタイプがあるよなあ…そもそもそれって「パロディ」なのか?というような)方向に考えるというのならいいが、パロディという概念でポプテピピックを考えるというのは何か順番が逆ではないかと思ってしまう。何かを考えるために作品があるのであって、作品を何かで考えるというのはどうなのだろう。作品「へ」向かうベクトル…作品を楽しむことが目的地であるというのは違うのではないか。「作品に〈ついて〉」考えるということが、もとより、「何かに〈ついて〉」考えるという事が全て「違う」のかもしれない。

ノート201801#4 語りかけるように書かれたもの

「語りかけるように書かれている」と思える小説が好きなのだが、自分の中には家族や友人が実際に語るような「生の語り」だけでなく、特撮・アニメのようなある種「大仰な語り」も息づいていて、だからこそ流れるようなリズム感とは遠いつっかかりのある文体(例えば大江の小説のような)を「語っているように書いている」ものと読めるのではないか。

ノート201801#3 映像作品において言葉によって与えられた…

映像作品においても素っ気なく言葉によって与えられたものによって空間の把握の仕方が影響を被る事もあるのだから、言葉も音も捨象して考えることは出来ない。

ノート201801#2 作品・状況・問題

作品はどうしてこういう風にしか問題にならないのか。そもそも「問題」というのが違うのか・・・
作家は状況論をやっていても話(仕事)にならない。作品を「状況」の中に置き直すのは評者の仕事。また、面白いから状況に置けるのであって、状況に置けない作品がつまらない/置ける作品が面白いという事はない。

ノート201801#1 既視感

既視感を感じさせない作品が、改めて振り返ってみて新しいものに満ち溢れているかというとそういう事はない。新しいと主張出来るところがない事もないが、概念操作で新しいと主張出来るような新しさなら既視感だらけの作品にもあるだろう。既視感を感じるかどうかは、見ている対象の道具立て(「要素」に分解されるような)とは関係がないのだと思う。

2017年 良かった文