「意見」から「有り様(ありよう)としての言葉」へ(Twitterの不快感と作品語りのあり方について)

 Twitterでの意見・主張ツイートには納得よりも必要以上の不快感をもたらされる事の方が多いように思われる。その意見・主張はよくよく見返してみれば「まあそう考える人もいるよな」という、ひとまず自分の中で「考えるための材料」としておけばよい、即応の必要があるものではなかったりするのだが、そのようなツイートを見た瞬間はとにかく反射的に、何が何でもその主張に対する対抗案を即打ち出さなければならないという強迫観念に駆られてしまう。
 その反射的な不快感・強迫観念を「落ち着いて客観視してみる」段階に必ずしも移行できるとは限らないのが厄介なところで、ことに反射的な不快感をそれこそ反射的にアウトプットしてしまった場合などは、その自分の発言と一貫性を持とうとして引っ込みが付かなくなる場合もある。
 Twitterでの意見・主張ツイートが駆り立てる不快感の「必要以上」度の高さは、その意見・主張の方向性の読者との噛み合わなさではなく、その「ツイートでの意見・主張」が「ツイートでの意見・主張」であること、そのスタイルそのものによって生み出されていると考えるしか説明のつかない程のものがある。心持ちとしては「Twitterでの他人の意見はすべて、見るとムカつくように出来ている」くらいに考えなければならないのではないか。
 ツイートが人をムカつかせる構造のひとつとして考えられるのは、ツイートでの意見・主張が往々にして読者の前に「全ての読者それぞれに、直接向けているような」顔をして現れるということが挙げられる。誰もに向けられているかのような強い志向性と即応以外を許さないかのような直接性…ツイートによる意見・主張は多くの場合、あまりにも「意見・主張であり過ぎる」のだ。
 ツイートでの意見・主張が持つこのようなラディカルな性質は個々人を反射的な反応へと駆り立てるのみで、その意見・主張が本来それをつくることを目的としているはずの「他者の変化の機会」を著しく損なう結果を生んでいる。人を反射的に駆り立てることに終わらず、ゆっくりと昨日とは違うところへと動かしていくのはおそらく、「こちらを強く向いている」(強い志向性と直接性を持つ)ような意見・主張ではなく、人のひとつの「有り様」(ありよう)がどこを目指しているともなく言葉で差し出されるような瞬間なのだ。Twitter(だけとも言い切れないが)の言葉をめぐる現在の状況は、人の言葉をひとつの「有り様」の表現として存在させることを困難にしている。

 ところで、Twitterでの言葉の論理に引き摺られて、創作物について生産的に何かを語るということが、作品を意見・主張に還元することとイコールに捉えられているケースもあるように思われる。だが作品は、強い志向性・直接性を持った意見が他者にとって受け入れ難いものだからこそ、創作という行為を経てある形式を持った構造物として練り上げられたものだとも言える。〈作品の目的が単なる「意見の伝達」にあるのであれば作品という構造物を拵えるようなまわりくどい手段を取らずに意見そのものとして差し出せばよく、そうでないからこそ作品は「他でもないその形」をしてここに差し出されている…〉というような言い方は、作品の「その形そのもの」を見据えるための戒めとしてしばしば持ち出されるものだが、改めてここで強調しておきたい。
 ナマの意見・ナマの主張が受け入れ難いものだからこそ、そこにあるとも言える作品という構造物。そのような構造物を直接性・指向性を持った意見・主張へと読み換えることは、作品を作品以前の受け入れ難い原型へと押し返し、創作という行為を元の木阿弥へと帰す行為になっていないだろうか。
 作品についての語りを、確かに作品が存在することの震えから生み出されたひとつの「有り様」を語る行為として存在させることが、現在の「作品についての語り」には求められているように思われる。