田中小実昌『ないものの存在』に引用されていた三木清『哲学入門』の断片

行為は運動である。しかしそれは水が流れるとか風が吹くとかという運動と同じに考えることはできぬ。それらの運動は客観的に捉え得るものであるが、行為は、それをどこまでも客観的に見てゆく限り、行為の意味がなくなってしまう。行為は単に客観的に捉え得ぬ主体的意味をもっている。行為の対象であるもの即ち客体は、私が何を為すにしても、つねに既にそこにある。私が今この手帳を取ろうとする、そのときそれは既にそこにある。かように客体はつねに「既に」という性格を担っている。客体の担うこの過去性は、普通にいう過去と同じでない。この手帳は現にそこにあるのであり、現在そこにあるものをも「既に」そこにあるものとするのが行為の主体的立場である。また未来に属するものも、見られたもの、考えられたもの、知られたもの即ち一般に客体としては、既にそこにあるということができる。このようにして客体はすべて或る根源的な過去性を担い、いわゆる過去現在未来に属する一切を既にそこにあるものとしてこれに対するのが主体である。主体はいかにしても既にそこにあるとはいい得ぬものであり、真の現在である。この現在は、過去現在未来と区別される時間の秩序における現在でなく、それを超えた全く異る秩序のものである。この現在においてあることによって、過去も未来も現在的になる。過去や未来が我々に働きかけるというのも、この現在においてである。それは過去現在未来が同時存在的にそこにおいてある現在である。行為は既にそこにあるといい得るものでなく、既にそこにあるのは為されたものであって為すものではない。行為はつねに現在から、普通にいう現在とは秩序を異にする現在から起るのである。行為が主体的なものであるというのはそのことである。かくして行為は過去をも未来をも現在に媒介する、そこに行為の歴史性があるのであって、我々のすべての行為は歴史的である。
(三木清『哲学入門』)