2020年のテレビアニメ感想


2020年に見たテレビアニメの中から、「面白かったアニメ」と「イマイチだった(ものによっては全部見てない)けど書くこと思いついた」作品について書いてみたい。
なお参考までに

2010年代の傑作は絶対防衛レヴィアタンファンタジスタドール・幕末義人伝 浪漫

 

2018年の良かったアニメは三ツ星カラーズ・音楽少女ほか

 

ribknit.hatenablog.com

 

2019年の良かったアニメは叛逆性ミリオンアーサー・バミューダトライアングルほか 

ribknit.hatenablog.com

 

 と、なっております。では。

どるふろ狂乱編

 癒やし編から続いて放送のショートアニメ。癒やし編からしてあまり話題になっていなかったが、狂乱編では癒やし編のシュールテイストも消え去り、余計に話題にならなくなった印象。

 しかし、ギャグ/コミカル作画・演出の練度では癒やし編に勝るとも劣らない良作。リアル日常芝居と超絶バトル作画以外も話題にして欲しいと心から願う。まあ後半は日本人には分からないギャグなのか単にギャグとして成立していないのか区別がつかない部分が多かったけど。

 毎回違ったショートアニメが流れるエンディング(ループ系をメインとして、1回ただの原作の衣装宣伝アニメだったのも面白かった)が良くて、定期的に繰り返して見てました。

プランダラ

 「こんなアニメ俺以外誰が見るんだ」感を、世界で自分だけが大好きな銀の墓守り(1期)のキャラデザの人が作画にメインで入っている事が加速させていく作品だったが、途中で挫折してしまって申し訳ない。2クールあったというのが凄いし、スケベ観念がひたすら時代錯誤なのにエロ画面の露出度はストイックというバランスも凄い。

 

 はてなイリュージョン

 スーパーアニメーター松尾慎氏(ラムネ&40炎のOPとか。ロボットアニメで名前を拝見することが多い)がここにきて初監督。
 原作が同じメルヘン・メドヘンはまだ「多人数チームバトルとかジュブナイルテイストとかファンタジスタドールに近い部分が所々あるから同じスタッフでアニメ化して…」みたいな企画の意図が推測出来たが、これに関してはもう何でこれをアニメにしたのかもそれがスーパーアニメーターの初監督作になるのかも分からないし、それでいて1話の(一般的にゴージャスさとは捉えられにくい)半端ではないゴージャスな画づくりといい、そのあまりのよく分らなさに応援せざるを得ないという決意を開幕で固くした。

 が、その後画面は壊れ気味で、終わってみると「いや、なんだったんでしょう?」としか言いようがないアニメ。でもこういうの作られる隙間がなくなったら日本のアニメは終わりだよとは思えた。OPアニメーションはほんとにカッコいい。今年のベストOP候補。

 

 ちはやふる3

 競技アニメの面白さはその競技独特の大会形式に演出が引っ張られていく所にあって、ちはやアニメはそれが楽しめる典型例。2期から6年。本当によく作ってくれた。2クールが早過ぎた。願わくば原作と共に最後までやって欲しい。

 

 映像研に手を出すな

 アニメ創作にまつわるどうこうよりも、「アナクロ遺産が眠っているマンモス学校(とその周囲)」という存在に引っ張られて楽しく見れた。なのでアニメ作るより製作環境やロケーションを探索してる所の方が好き。

 

 22/7

 OPの曲や1話で「ヤスシって…」とダメな雰囲気が漂ったが、ちょっと湿っぽい各キャラスポット回が面白くて一転、毎週楽しみなアニメに。アイドルアニメに「ライブパフォーマンスのカタルシスをエピソードの各部が支えていく様」とは別な「何か」を求める自分にとって、湿っぽいドラマのその湿度が「何か」として機能したのか。この期に及んで未だ死ねずにいるアイドルアニメ侮りがたし。

 

球詠

 要求コストが明らかに高い野球という題材を地に足ついたリソースでちゃんと見せられているのは、ここで何か高度な事が行われている証拠と見た。その演出と菊田幸一氏(このすばのキャラデザで知られる)の独特のキャラデザがアニメートしていく様は、崩れや空白をポジティブなものに転化していく力を持っている。いわゆる「良い漫画の良いアニメ化」とは一味違うバランスで成立している良作。スタジオA-CAT作品は近年良作続きなので要注目。

 

サクラ大戦 the Animation

 1話見た時点では案外いけると思ったんだけど…。コンテになかの☆陽氏(自分が好きなのは閃乱カグラ2期5話のコンテでの仕事…今年はウルトラマンZでのコンテ仕事が代表作か)参加の2話のバトルの設計など、画的に面白い所はぽつぽつあった…のだが。

 

邪神ちゃんドロップキック

 レガシー的リミテッドアニメギャグ演出の粋を集めたギャグアニメの2期。基本要素が出揃ってお披露目要素が少なくなりやや飽き始めて来たのも否めないが、ふるさと納税が絡んだ無理矢理な地域観光展開が活路を開いたか。早くも3期が決定するその躍進ぶりに、逆に戸惑う。

 

プリンセスコネクト!Re:Dive

 世の期待度が高い原作のアニメ化に、金崎貴臣監督が割り当てられる時代が来てしまったか。これゾンもこのすばも主人公が独白含めてよく喋るアニメだったので、その辺の作品と比べるとこれは結構異色。

 流石にいろんな部分が胴に入ってるけど、サイゲ原作のアニメにはある枠を絶対に踏み越え(られ)ない感じがあって(一定の下世話さに踏み込めなかったり…)、それがこの監督に合っていたかというとどうだろう。純度が高すぎて自分は最後まで思い入れ切れない…というのは贅沢な感想か?

 


ラピスリライツ

 ゲームリリースを前提としたアニメ先行型メディアミックス。またアイドルアニメ?と思わせつつ、アイドルやるのがメインのつくりでもない。「この世界のアイドルは魔法が使える」がCMのコピーだった気がするが「この世界の魔法使いは時にアイドルになる」と言った方が良い。

 実は退屈になりがちな「みんなでゲームをプレイ」展開を別ラインとの並行で見せる5話など、多キャラ多ユニット制を楽しく見せるセンスが光る。はじめから個がきっちり立つより、全体がわちゃっとしながらそれぞれの存在がぼんやり立ち上がってくるタイプが好きな自分にはピンポイントなアニメ。名作妹ちょの監督がやってくれた感。温かいエピソードをピュアな目線で見守り続けるにはちょっと肉感的過ぎる気がするキャラ作画(全ユニット全メンバーのコスがノースリーブかオフショルダーだし)というバランスも好み分かれそうだが自分としてはツボ。

 自分が面白いと思ったスマホゲーアニメはその後ゲームが速攻サービス終了しがち(あかねさす少女、ぱすてるメモリーズ 他)だが、これはまだゲームがリリースされていないので安心。

 

モンスター娘のお医者さん

 性癖~な感じで進むかと思いきや、案外そういうパートは薄味で、基本的には地味なドラマが展開。性癖~な感じでは出なかったであろう牧歌的テイストに好感を持ったが、牧歌的過ぎて刺激に欠けたきらいもある。なんだか惜しかった作品。

 キャラデザの加藤裕美氏はファンタジスタドールの時もそうだったが、描く人が死なないか心配になるくらいキャラ原案のディティールをアニメキャラデザにも残すなぁと思った。

 

放課後ていぼう日誌

 絶対防衛レヴィアタンのキャラデザ…というか動画工房作品をはじめとした多数のアニメでハイテンションなOP・EDアニメーションに関わり続けてきた大隈孝晴氏の初監督作。

 近年の動画工房のアニメは「カタい」という印象(好きな動画工房アニメは恋姫†無双11eyes)が強くてあまり見れない事が多いのだが、これは海釣りという個人的にすごく興味のあるアクティビティに、ディティールをきっちり抑えつつ取り組んでいくアニメなのでするっと見れました。キャラクター作画にちょっとクセがあるのもいいアクセントになっている。EDの歌詞の気が効いてる感じがちょっとムズっとするんだがこの気持ち分かる人おる?

 この前のダンベルも見れたので、自分が今の動画工房のアニメを見れるかどうかは結局題材次第という事になってしまうのかもしれない。

 

彼女お借りします

 マガジンラブコメがせめてきたぞっ!と防御態勢に構えつつ見始めたが、現代的な洗練もちゃんと有したキャラ作画のなかでベテランを中心とした演出陣が半ば懐かしさも漂うコミカル演出(巨大化するリボン・突然ツッコミ始める熱帯魚などなど)で遊ぶ、マガジンラブコメとしては珍しいテンションのアニメ化がなされており、色々とアレな恋愛?模様を見せられているのにも関わらずなんだか爽やかな気分に。

 

ジビエート

 未だにこういうのブチ込んでくるから全くアニメってやつは。初回OPから既に漂う規格外感。あまりに感染力が強すぎて他のアニメでというか生活の中で何を見てもジビエートを思い出すように(例:「●RECジビエートじゃん」「カツカレー→ジビエートじゃん」「光る棒→ジビエートじゃん」「関越道→ジビエートじゃん」)。OPもヘビーローテーションした。
 何がヤバいかいちいち語ってるとキリが無いし、他所でも散々語られてるので今更何も付け加える必要ない気もするが、所々背景だけは妙に丁寧で関越道の無人と化したサービスエリアの駐車場とか関越道のトンネルとかの入口とかの質感は出ていた(ので逆に笑ってしまった)という事は言っておきたい。あとワーゲンバスが出てくるアニメは今までいくつかあったけどこんな奴ら(ほぼヤクザ)が中に乗ってた作品は他に無え!

 

魔女の旅々

 キノの旅?と思わせつつその手の話はオチに一捻りも二捻りも足りない感じだし、コメディ回で90年代諸国行脚系ラノベ(だけではない)アニメ風のテイストを匂わせつつも、それが魅力というにはいい話は普通にいい話過ぎる*1…丁寧に作ろうとしている事が逆に「色々とやろうとして中途半端」な印象を増幅してしまっているような。細かいアクション(芝居含む)の組み立ての軽快さや、本渡楓ボイスのエロさで最後まで見る事は出来た。

 

いわかける

 あのCHEATING CRAFT(9話は10年代アニメを代表する狂ったエピソード)を送り出したスタジオ・BLADEの初30分アニメ。アナクロさがツボに入るタイプの人をスベるのを恐れずに狙い澄ましたかのようなつくりで、画・演出の方向性共にどちらかといえば好物。ギリギリ「スベってる」寄りなのではというキャラ造形などムズムズする部分はあったが、特徴的な大会形式に作劇が寄っていく所など、競技アニメとしてのツボは抑えてあった。演出力でギリギリなんとかまとめる最終回は「テレビアニメの最終回」感に溢れていてナイス。

 作品のテイストを象徴するかのようなこれまた懐かしい雰囲気のOPアニメーションとEDアニメーションには完全に射抜かれた。鈴木愛奈はどこかにアナクロ要素を含む作品のテーマ曲ばかり歌っている気がするな。そしてED原画のアニメーター小澤和則氏はいくらなんでも今年(も?)描き過ぎで、原画に名前見ないアニメあった?とすら思える。

 

虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 ラブライブの名を冠しつつも全体的にシュッと今風になって「こうなったかー」と感心はしつつも、葛藤→パフォーマンス収斂型なその盛り上げ方(いや個人的に苦手なだけでアイドルアニメとしてはそれが普通なのだが)には毎回「いや、まだ俺お前らの事よく知らんし…」と感情がついていかない部分も多し。その辺「特に下準備なく初めから思い入れてもらえる事前提」なものを感じてしまったが、人気シリーズに連なる作品としてはその辺は気にしない作り方が正解という事なのか?面白い画面が連続する回(10話*2)もあり、その辺は楽しめた

 

アクダマドライブ

 こんなのダンガンロンパ苦手おじさんが見れるはずないだろ…と思ったが、どんなセンスを見せるにしろ勿体つけずに次へ次へと進んでいく潔さがあり、最後まで見守れてしまった。最終回近くで精神or電脳世界にinチックな絵面が頻出したのは少しガッカリしたけど、最終回にここまで何かが(ちゃんと)終わる空気感がある作品も最近珍しかったのでよし。単発劇場アニメで作るプランも想定されてた企画だったのでは?という気もする。

 

禍つヴァールハイト

 目立った特長のない舞台設計とどのキャラを1話限りのモブと言われても信じそうなキャラ造形というフックの無さ…表面的な創意を見せつける気があんまり無さそうなのと「先に何かあるのでは?」という勿体つけた感じで見せようとしてくる感じは、上のアクダマドライブと対称的な作品なんではなかろうか(「単発劇場アニメも視野に入れてたのでは?」と思わせる所は同じ)。

 その「何かあるのでは?」感にまんまと最後まで付き合ってしまったが、終わり方もこれまたアクダマドライブと対称的に全然何かが終わった感じはなく…

 でも、このご時世にいわゆる「キャラ立て」的なものとは無縁にキャラたちがイキイキしてるバランスは個人的には好みだったし、そこまでのプロセスを勿体つけた割に人の死の余韻の描き方が異様にドライだったり、ツダケンがそんなに重い扱いじゃなかったり、長縄まりあがやっぱり良かったり、この作品特有の空気感は味わえたのでそこまで損した感じはしない。

 

 呪術廻戦とD4DJは未完なので2021年扱いに。終わってたらD4DJがこのシーズンベストだったか。

まとめると今年特に良かったのは

ちはやふる3
・22/7
・球詠
・ラピスリライツ

あたりか。ジビエートは特別賞。こうして見ると今年は「これは俺のアニメだ!」というヘンな気分にさせてくれるタイプの面白さのアニメは少なく(近いのは球詠か)、手堅く面白いものが多かった印象。

*1:胸糞エピソードも諸国行脚アニメ風エピソードも傑作な叛逆性ミリオンアーサーというアニメが去年あったのだ

*2:

最近(2020年1~3月)行った銭湯(船堀 あけぼの湯 、池袋 稲荷湯 他)

幡ヶ谷 第二かねき湯

京王新線初台〜幡ヶ谷の中間あたりにあるマンションタイプの銭湯。ボディソープ・シャンプーはフロントで下駄箱の鍵と交換で借りるというあまりないスタイル。下駄箱の鍵の番号は利用者が記憶する必要が。休憩スペースは十分くつろげる広さがあり、アイスも売っている。立地的に狭そうだとか勝手に思っていたが、そんな事はなく結構ゆったりしている銭湯だった。

新庚申塚 ニュー椿

都営三田線で言えば西巣鴨から巣鴨方向の間、都電荒川線新庚申塚駅のすぐ近くにあるマンション銭湯。白山通りに面した建物壁面に巨大な「ニュー椿」の文字があるので見逃すことはない。壁面の文字に対しエントランスはそれほど大きくないが、脱衣所・浴場は広々。屋外露天には打たせ湯もある。温浴設備重視でサウナ/交互浴勢に評価が高い銭湯らしい。設備に対して意外にもボディソープ・シャンプー設置はない。休憩スペースはソファー&テーブルの必要十分スタイル。銭湯の休憩スペースで最近気づいた事だが、相撲中継の立会いが始まるとなかなか人が離れず混み合いがち。

桜上水 月見湯温泉

桜上水の駅南側、下高井戸方面にある温泉銭湯。笹塚にも温泉銭湯があり、仙川にも銭湯ではないが料金安めの温泉施設があったり、京王沿線はお手頃価格の温泉が充実している。世田谷区で銭湯価格の温泉とくれば…という事で行った日も無茶苦茶賑わっていた。

浴場は都内ではどちらかといえば少数派の、中央にいろんな種類のお風呂が配置され、外周が洗い場というタイプ。ボディソープ・シャンプー設置あり。脱衣場に縁側があり、こういう銭湯はちょっと得した気分になる。休憩スペースも申し分なし。帰路は下高井戸駅へ。駅の構造と運行の都合上桜上水の方が止まる列車は多いが、駅前は下高井戸の方が賑わっている。下高井戸駅は停車する電車が少し傾く感じと脇に世田谷線がくっついている感じが良い。

船堀 あけぼの湯

船堀で温浴施設といえばカラオケまねきねこの系列施設「天然温泉まねきの湯」(以前行った時はビデオゲーム筐体がゲームコーナーにあったが今はどうなっているやら)が有名だが、温泉を生かした銭湯も2カ所あり、あけぼの湯はそのひとつ。

しかしまず荒川沿いを散歩してから当の銭湯に向かう手前で発見した、駄菓子屋が総合メディアショップの皮を被ったような店に心を奪われる。恐らくメイン商材はTCGデュエルスペースに集まる子ども向けの駄菓子、そしてAV。もう単に置いてるだけで一時期から品揃えが刷新されている気配のない新品・中古ゲームや古本の類に囲まれたデュエルスペースで盛り上がっている子供たちから、幕一枚を隔ててAVスペース。店内にはDSの光の4戦士FF外伝の販促タペストリーが。店内のあちこちにそれぞれ違ったポイントで時を止めてしまった空間が偏在している中、TCGと集まる子どもたち、駄菓子、そしてAVだけが現在を生きていた。

本題のあけぼの湯は、面構えからすると明らかに狭そうなのだが、ロビー横にはお食事処完備。そして浴場内部に入ると最初一瞬「これだけ?」と思ってしまうが脇に2階への階段が。「そうか、1階2階の二層式でトントンなんだなー」と思って2階に上がるとトントンどころか2階だけで普通の銭湯以上のスペースがあり、普通にゴージャスな銭湯であることが判明。櫓付きの寝湯や渦を巻く円形牛乳酵素風呂など変わり種もある。帰りは船堀タワーことタワーホール船堀の展望台(無料!空いてる!)から夜景を。件の店といい濃い街だ、船堀。

池袋 稲荷湯

池袋といえば桃仙浴場をはじめ西方面の銭湯が次々と消えていった過去が思い出されるが、駅から歩いて行ける範囲にまだまだ銭湯は残っている。「首都高高架下沿いの古本屋は駿河屋(池袋乙女館)になったか…」などと東池袋の変化に感慨を漏らしつつ目的地へ。乙女ロードの先の串カツ田中を通りがかると中に女性客しか見えず、世界にはこんな串カツ田中もあるんだなとも。

目的地付近には半分が商店になっている銭湯「ゆラックス」もあり、こちらは知り合いが近くに住んでいた事があって何度か行ったことがあるが、今回の稲荷湯は初めて。この周辺は池袋という一大ターミナル駅からの距離にしては「都区内の住宅街」然としているが、この稲荷湯もそれに合わせてか「住宅街のアットホーム銭湯」な雰囲気を漂わせている。脱衣場でボディソープ・シャンプー設置なし…は割と豊島区には多いパターン。番台型の、脱衣場でくつろぐタイプ。池袋散策から思いつきでいける都心のエアポケット。さきの串カツ田中のように、乙女で埋まる日は来るのか。

文京区 大黒湯

戦後復興計画の環状3号線が唯一計画通りに開通した区間(つまり「本来こうあるはずだった東京の道」の姿が見られる)「播磨坂」に桜を見に行った帰りに寄った銭湯。茗荷谷方面からひときわ目立つお茶の水女子大学の国際交流学生プラザの建物を横目に春日通りを新大塚の方へ歩いていくと、大通りに面するザ・銭湯な建物が。大通りに面する銭湯はマンションタイプな事が多いので意外。入口はフロントだが、中は高い天井に脱衣所が広く取ってある旧来式。脱衣所→浴場の扉は衝撃の自動ドア。構えからは望外のシャンプー・ボディーソープ設置も嬉しい。内側から上を見るとトレードマークの八角形の湯気抜きがある。件の播磨坂のような「こんな所が」な散歩スポットが多い文京区散歩のお供に使える本格銭湯だ。

文庫にならないフーコー「言葉と物」―現代思想の文庫たち

 フーコー「言葉と物」現代思想の基本テキストにも関わらず手に取りやすい文庫にならない(或いは廉価版が出ない)事はしばしば話題になる。他の現代思想系著作(厳密には「現代思想」には入らないかもしれないが、大きな影響を与えた20世紀思想も含む)はどうだろう。
 フーコーは長めの著作では「知の考古学」(「狂気の歴史」「臨床医学の誕生」「言葉と物」などの大著の方法論を開示する著作…らしい)は河出文庫に入っている。また大著に比べてマイナーだが、フーコー思想の入門としては最適と言われる講演録(哲学者著作は講演録から入るのが基本)「言説の領界」河出文庫に入っている。長さも程々でフーコーにしては普通に読み通せる本で面白かった。「狂気の歴史」「監獄の誕生」などメインの大著群が文庫にならない(出来ない?)事へのせめてもの抵抗として、入門書的なこれを文庫にしているのかもしれない。ちくま学芸文庫の「フーコー・コレクション」は「ミシェル・フーコー思考集成」からの選集で短~中篇ともいうべき論文が集まっており、各大著の部分的原型になった論考なども含まれているので拾い読みには適している。
 ドゥルーズは近年ほとんどの代表著作が河出文庫でまさかの文庫化を果たした(「ヒューム」「ニーチェなど哲学者別論考の一部はちくま学芸文庫で以前から出ていた)「差異と反復」、ガタリとの共著「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」などの大著はもちろん、「ザッヘル=マゾッホ紹介」なども文庫になった。自分のような下手の横好き哲学本読者でも圧倒的に楽しかったのは対談集らしからぬ対談集、「記号と事件 1972-1990年の対話」ドゥルーズ哲学の手引きともなりつつその域を超える名言だらけで、読んだ哲学の本の中で一番好きかも。

  デリダ「声と現象」ちくま学芸文庫で版を重ねているが、一部から熱烈に支持*1されている「死を与える」は入手困難になっている。全体の著作の中で文庫になっている割合は少ない方か。

 バタイユちくま学芸文庫の「エロティシズム」「呪われた部分」などなど、かなり文庫化率が高い印象。日本では異様に人気がある(あるいは一時期異様に人気があった)のではないだろうか。澁澤とか、そっち方面からの切り口もあるのがやはり大きいか。

 ベンヤミンは短かめな論考(あまりにも有名な「複製技術時代の芸術作品」含む)は岩波文庫ちくま学芸文庫河出文庫など複数の文庫に様々な形で収録されている。1巻1巻が分厚い上に堂々7巻刊行済みのベンヤミン・コレクション」が当然のように網羅性は高いがエッセンスが散らばってる感じもあるので、初めて手を出す1冊ということなら岩波文庫(「暴力批判論」「ボードレール(「複製技術時代の…」も入ってます))もエッセンス凝縮度の面でおすすめ出来る。相場も安いし。(なお、岩波現代文庫の「複製技術時代の芸術作品」解説本「ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読」は本文も全文収録している)。ちくま学芸文庫のコレクションは順調に版を重ねている印象があるが、長めな著作の「ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念」は品切。「ドイツ悲劇の根源」がこの前復刊されたのが救い。「パサージュ論」岩波現代文庫から出ていたが、巻によって品切中で現在揃いで入手するのは割と困難。

  ロラン・バルトちくま学芸文庫などで結構な数の著作が文庫になっている(「エクリチュールの零度」「表徴の帝国」「映像の修辞学」など)が、文庫になっていないものに限って良著の声が高い(「明るい部屋」「恋愛のディスクール 断章」「サド・フーリエロヨラ」など)。有名な「作者の死」を含む「物語の構造分析」も文庫になっていない。文学よりの人ではブランショも「文学空間」が文庫になっていなかったり(「明かし得ぬ共同体」「来たるべき書物」などはちくま学芸文庫で出ている)、少し穴が。

 その重要度に対して文庫化率が圧倒的に低いのはレヴィ・ストロースだろう。「悲しき熱帯」は「悲しき南回帰線」として講談社学術文庫で出ていたが訳が異常に不評で、読むなら中公クラシックスに頼る事になる。解説などを度外視してどうしても安く読みたいなら、中公「 世界の名著」(函入単行本と少し小さな中公バックス版がある)に収録されている巻があるので、古本屋で安く転がっているのを狙おう。とはいえ、これはどちらかといえば思想寄りの著作ではない。そっちの方の代表作「野生の思考」は、その重要度に対する文庫になってなさの度合いでは「言葉と物」と双璧かもしれない。
 余程じゃなければ概説で済ませておけと話題になるラカンは主著はほとんど文庫になっておらず、著作の中でどのポジションにあたるのかが概説書の類にもあまり出てこないようなものが文庫になっている印象。著作の中では日本語として読める方と言われてた(気がする)「精神分析の四基本概念」は、品切でえらい値段になっていますね。
 レヴィナスは珍しく岩波文庫が手を出している他(「全体性と無限」)、講談社学術文庫ちくま学芸文庫などでぽつぽつと出ている。

 複数著作が文庫化している著作家はこの辺で、その他ボードリヤールなど代表1作が文庫になっているパターンや、クリステヴァなど文庫化を待つ間にあまり読まれなくなってしまったパターンなどがあるか。やはり複数文庫化しているのは流行期のあったフランス系の人が多く、アメリカ系はジョン・サール(セクハラで処分されましたね…)「MiND 心の哲学ちくま学芸文庫で出るなど兆しはあるものの、かなり少ない。アメリカ系の重要著作の文庫になってなさ度合いこそ「言葉と物」や「野生の思考」どころではない状況にある気もする。

 まだまだ振り返り忘れている部分があるような気がするが、とりあえずこの辺にしておこう。

 さて、フーコー「言葉と物」について。初めて読むとなんといってもボルヘスの「シナのある百科事典」の引用(の引用)から始まる序章のドライブ感に惹きつけられる。ベラスケス「ラス・メニーナス」の批評になっている第1章(これの原型になったテキスト「侍女たち」はちくま学芸文庫フーコー・コレクション 3 言説・表象」に収録されている)も読みごたえがある。その後、ミクロコスモスマクロコスモスで錬金術な2章までは楽しみつつ、3章あたりからだんだん顔が引きつってくるのが自分のようなヌルい読者のありがちなパターンではないだろうか。全部を咀嚼するのは容易ではないが、序章やあまりにも有名な末尾の言葉など、そこだけで強く惹きつけられる細部を持っているのが思想プロパー以外にも強く支持される理由か。
 文庫化されている現代思想系著作を振り返ってみると、読み込める人間がそう沢山いそうもない難解な著作までよく(どちらかといえば低価格多売が前提の)文庫になっている方だと思う。思想書の敷居を下げるのに大きく貢献している反面、フーコーのように「手引き的な著作は文庫で」「主著たる大著はいかつい単行本で」という棲み分けが基本になっていた方が、初学者には読む道筋がつけやすくて分かり易い読書界が形成されていたかもしれない。下手すれば一生読めかねない本が数千円するのは当然という考え方もある(「言葉と物」に関しては古本屋で状態に拘らなければ三千円以下で売ってることもそう珍しくはないので、この期に探してみては…何しろ今でも訳変わってないし)。
 とはいえ、自分のような貧乏人とっては安くて軽くて困ることはない(思想書の類は単行本でも文字サイズ別に大きくないし…)ので、まあ文庫になってくれるに越したことはないところはある。単行本を既に持っているものに関しても、文庫で出たら買い直すのも吝かでない。
 余談(現代思想からは少し離れる)だがフィクション論の重要著作は文庫にならないどうこうではなく、入手難度そのものが壊滅的な事になっている。ウェイン・C・ブース「フィクションの修辞学」とかジュネット「物語のディスクール」とか、誰かなんとかしてください。

*1:保坂和志と自分の身の回りで出会った人との二人から、だが。こういう風にある著名な人の支持とそのことを知らない身の回りの人の支持が重なる著作には興味を持たされる

瀬戸際の文章(印象に残る冬・古井由吉の文章)

 一昨年もその前の年も首都圏に印象に残る雪の降った冬だったので、雪の気配のなかった去年の冬(2019年1月2月)は少し物足りないものだったが、今年の冬(2020年1月2月)は雪の気配どころか自分が上京してから恐らく最も暖かい冬になった。逆に寒いことで印象に残っている冬は2006年の1月2月で、毎年冬の度に思い出すという自分の中である基準になっている冬(こんな事で驚いていると寒い地方の人に笑われそうなのだが、外の洗濯機置き場の水が凍って出てこない日があって驚いた)なのだが、年数まで思い出すことが出来るのは作家の古井由吉氏が「辻」(2006年初版)の出版記念公演でその年の冬の話をしていたからだ。
 今年の冬もちょうどその事を思い出していたところ、古井氏の訃報が入って来た。自分に寒い冬を印象づけた作家(「雪の下の蟹」という、大雪を印象づける作品も持つ)が、暖かさで印象に残る冬に亡くなった。文芸誌のインタビューにて氏は、花(桜)の咲いている季節は休むことにしていると言っていた気がする。その桜の季節の目前のことだ。
 氏の文章はなかなか言葉にされる事のない、また、する事が困難な「間」(あいだ)(これまで簡単に言葉にされてきた「あれ」と「それ」の「あいだ」という意味での)の感覚ともいうべき微妙な感覚を描こうとする、無二のものだった。その分読者に与える負担も大きいものだったと思う。自分など、読む度に毎回ぐったりとし「もうしばらくはいいな」どころか時には「もういいな」ともなりつつ、少し経つとやはりあの無二の感覚を味わいたくなり、気づけばその著作をまた手に取っていた(自分は「杳子」のような男女関係が絡む作品はあまり得意ではなく、中~後期の「山躁賦」楽天記」「白髪の唄」のようなエッセイ要素が入ってくるものの方が好き。初期なら「先導獣の話」や「円陣を組む女たち」が素晴らしい)。
 氏の、特に作家歴が進んでからの文章はその無二の凄み・異様さは一読で感じられるものなので世評も高かったが、その評価のもとに読者が安住出来るような性質のものではなかったと思う。自分も初めて氏の文章に出会った時はその文章に酔い(この文章を書く人間が生きているという事が信じられず、何度か講演にも出かけた)信奉者となったものの、やがて単に酔っているだけでは文学に向き合えなくなってきた時、その文章は読者が「覚め」に振れたときに不安定な拠り所しか残さない、心もとないものにも思えてきた。
 「間」(あいだ)の感覚を描く、そのために「酔い」と「覚め」の「間」に読者を置くこの文体が伴ってくる。だがそのために、ここまで行ってしまわなければならないものなのか。読者をここまで連れていかなければいけないものなのか。それは許されることなのか…
 「果たしてこの文章は許されるのか」すなわちこの文章は「アリ」か「ナシ」か…そしてさきに触れた「酔い」と「覚め」の「間」…氏の文章はさまざまな境界にその読者を置き続ける「瀬戸際の文章」であり、それ故にラディカルと言うに相応しいものであり続けたのだと思う。その文章が描出する「間」(あいだ)を漂い続ける自由が、読者には残された。

「好き」とは違う何かで…(「文学の強み」・乗り物・大江健三郎・笙野頼子・後藤明生)

昨年NHKの100分de名著で大江健三郎「燃え上がる緑の木」が取り上げられていた。番組のように掻い摘んで解説されると「一体何が面白いんだ…」となってしまう作品なのだが(見れば見る程「大江なら普通に万延元年のフットボールなどでやっておけば…」と思ってしまった…諸々の事情によりそうもいかないのだろうけど)、大江作品の良さはもとより文学の強みのようなものを印象づける「とある部分」を含むがために、自分は好きな作品だ。

第三部前半、語り手のサッチャンが作品の一時的に作品の舞台となる伊豆からメインの舞台である四国の谷間へと帰ってくる一連の流れがその「とある部分」だ。サッチャンは、羽田から高知へ航空機→高知駅からバス→乗り合わせた女性客が嫌になって下車→歩いているうちに知人のトラックに遭遇→トラックに搭載されていたバイクへ…と、様々な乗り物を乗り継いで谷間へと帰還していく。

決して小気味よくとはいかない大江の文体と次々と外部に対する露出度の高い乗り物へと乗り換えていく過程のせめぎ合い、バス車内の少しユーモラスな「イヤな感じ」、トラックに搭載されていたバイクが荷台にではなく”運転台の後ろの風除けの下の箱型の部分“に載せられていたという描写、そしてこの帰還の過程が作中で触れられる魂の「上昇/下降」「右廻り/左回り」のモチーフと重なっていることも含めて、大江作品の一般的なイメージには無い、だが読んでいる人は知っている「そこに乗り物が現れた時の大江作品の魅力」(大江作品で乗り物が重要なモチーフになっていることは多く、例えばバスは大江作品で常に不穏な空気を漂わせている)が詰まった素晴らしい部分だ。大江作品が余程好きでないと手を出さないように思える大長編の後半でこの部分に出会えるという喜びも大きい。

乗り物といえば、笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」はそのかなりの部分が写実的というにはあまりに浮遊し、幻想的というにはあまりに湿っている(この絶妙なバランスこそが笙野頼子の小説の味だ)電車の車窓の描写で占められている。他の代表作「二百回忌」も鉄道に繋がりが深い。

大江健三郎笙野頼子…この二者が特別乗り物が「好き」かといえば、両者の作品をそれなりに読んできた自分としては、そんな事はないように思える。ただ両者の、乗り物の周りにある描写には単純な「好き」を越えた何かが渦巻いているということだけは言えるのではないか。そして、上で挙げた両者の小説の記述は、その表現そのものに加えて、それがある長さ・広がりをもった「小説」の中にある言葉である事によって(「燃え上がる緑の木」の帰還の過程が作中の他の部分のモチーフと関わっていたように)、「好きな人が好きなことについて書いた」文章と違う何かを提示する文章として存在している。文学は「好きでもないもの」について書くこと、「好き」とは違う「何か」で成立させる事が出来る。それが文学の強みだと自分は思う。

後藤明生の小説には「特別詳しいという訳ではないが」「特別好きという訳ではないが」式の前置きが頻繁に出てくる(“私は、いわゆるクラシック音楽愛好家ではない”ー「マーラーの夜」)。代表作「挟み撃ち」には自分が歴史的知識に疎く、知識を得ようとする努力さえしようともしない人間であるにも関わらず、なぜ名所旧跡の類を無視する事が出来ないのかを追究する一節がある。単純な「好き」とは違う、それでいて無視することの出来ない「何か」の周りをめぐるこの小説は、自分が読んだ日本の小説の中でいちばん好きな小説だ。

2019年の良かったテレビアニメ ~「他所に出すのはちょっと恥ずかしい」を信じる~

バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~

TCG世界観スピンオフアニメでまさか「仲良し田舎娘グループ(+都会から落ち延びてきたアイドル)が廃墟となった映画館を復興するために奮闘する」なんてモチーフが展開されるとは。
その他「記憶との対峙」「映画作り」などなど、今どきやっても単に「それっぽいだけ」「やってみただけ」に終わりかねないモチーフを扱い続けながらどのエピソードもその水準には留まらなかった。緩そうに見えて一定の緊張感が常に漂うアンビバレントな演出、新しい声優、抑制されたBGMがそれっぽいモチーフを扱われた時に否応なく上がるこちらのガードを解放。賛否両論(というかほとんど否…自分は好きだぞ)のキャラデザも、たぶんそれに貢献していたのだ。

放送中から流れて(掲示されて)いたヴァンガードのCMや山手線の駅広告は「彼女らはいずれアイドルになる」という現実を「(我儘ながら)正直このままでいて欲しい派」に容赦なく叩きつけてきたが、戻らない日々の輝きを切り取った映像だからこそ尊い本編と思うことにしよう。なんだかんだでいつか故郷に帰って日が来るかもしれないことを、作中の大人たちの有り様が示してもいるし。

ぱすてるメモリー

絶版コミックを探すこと(日常)と作品世界に入って冒険が出来ること(視聴者にとっては非日常だが彼女らにとっては日常)をフラットに「彼女らの日常」として演出した、「何か凄い事が始まる式」ではない語り始めの流儀を見せた1話は今年のアニメの1話で一番好きかもしれない。
澄み切った水のような1話に対しその後のコンセプトにはひっくり返ったが、単なるリスペクトとは違う方向の猥雑なパロティの流儀を見せてくれた。総じて「もうひとつの流儀」を見せてくれるアニメだったと言えよう。パロディの対象が単一の作品からあるジャンル広がった後半のノリでもっと見たかったかも。
忘れてはいけないのはエロカッコいいEDアニメーション。現状でもエロカッコいいが、担当アニメーターの同人誌にはもっとゴージャスなEDになる構想(コンテ)が。想定通り出来てたらどうなってたんだろう…。

叛逆性ミリオンアーサー

「実在性」(実写)「弱酸性」(ショートアニメ)とヤバい映像化作品を次々と送り出してきたミリオンアーサーがついに送り出した30分枠TVアニメ(普通これが最初では)。
前2つがパッと見で尖り過ぎていてこの「叛逆性」はいまいち世間では評価され難い向きがあるが、筆者は「叛逆性」によってミリオンアーサーが三冠を達成したことをここに宣言したい*1
個人的にアクア様を上回った雨宮天キャラ、団長こと団長アーサーが筆をへし折られたBL創作女子に「これからはそんなもので倒錯の変態世界に逃げ込まないで、全うな愛を育んでね☆」といまどき完全アウトなセリフを言い放つが言ってる奴が「お前が言うな」な大変態だからオッケーみたいな(5話)、お互いを認め合う事より無邪気に殴り合った結果として多様性が肯定される饗宴(カーニバル)感にフィクションの底力を見た。

あかほりアニメの血脈を受け継ぐスタッフも大きく関わり、「完成/未完成」「洗練/未洗練」どうこう以前に我々が時代の彼方に葬り去ってしまった(恥ずかしくて)ある種のアニメ活劇を、「恥ずかしいからどうだってんだ」とばかりに今ここに完成させた趣がある。

超可動ガール 1/6

良く出来てるモデリング&アクションに加えてあまりにまっとうにまっとうな「オタクネタ交えたSF」してて関心させられてしまった。とはいえ今どきオタクの欲望の表現としてもちょっと古さを感じさせる構図がベースにあるこのアニメ、ちょっと他所に出すのは恥ずかしいような…何せ他所に出しても恥ずかしくない(らしい)アニメには事欠かないご時世だ。
でもな、「まっとうだけど他所に出すのはちょっと恥ずかしいけどまっとう」…それが「オタクの本格(美少女)SF」って事だろ?ふたばにめ枠のアニメはどれもこの「他所に出すのは恥ずかしい」精神を保持しており好感が。ノーナのキャスティングもこれしかない感じで良かった。

ひとりぼっちの〇〇生活

あの三ツ星カラーズと同じ原作者の漫画が今年もアニメ化。だからってまた大傑作って事が果たしてあるだろうか…と身構えていたが杞憂に終わった。
話がどんなに情感的になっても、「アルちゃんいつ頭突き出すんだ…」みたいなアクション×サスペンスにピークポイントを持っていく所が多くのきららアニメに馴染めない自分でも好きになれる要因かも。

Re:ステージ! ドリームデイズ

星の数ほど生まれているアイドルアニメの後発組としては「アイドル事変」「音楽少女」のような野心のギラつくつくりでは決してない。ストレンジなネタも仕込んであれど、それだけをとってみれば数々の先達のものほど尖ったものではないような気もしてしまう。
要素ひとつひとつを点検するように振り返ると後発組としては致命的な「いたって普通」感に彩られているように思えてしまうこのアニメはしかし、守りに入った窮屈さとは無縁のエナジーを持っている。尖ったアピールポイントよりも「見ている間だけ捉える事が可能な、あるバランス感覚」(と、見守っているとクセになってくるみい先輩)で勝負しているかのような作品。アニメの最先端は何も尖った形をしてだけ現れるのではなく、こんな形をして現れるのかもしれない。

どるふろ 癒やし篇

なんか突如として放送されている感のあるドールズフロントラインのショートアニメ。あまりに突如過ぎて「実質ハオライナーズなんだから見なきゃダメだろ」との知り合いからの指摘がなければ見逃すところだった。
海外アニメらしい垢抜け過ぎない遊び心が画面に生きている、ほっこり楽しいショートアニメ。アリス・イン・ワンダーランドフォームをショートアニメで最大限展開したオタクシュルレアリスムな6話など必見。視聴方法が限られ過ぎているのが惜しい。
スタッフに加えスポットの当たるキャラも違う第2シリーズ「狂乱篇」が現在放送中で、いい感じに統一感があり過ぎない自在なデフォルメ作画と毎回違うEDアニメーションで楽しませてくれるのでこちらも必見。

その他

「サークレットプリンセス」は「今どきこのノリ」と水橋かおり成分を補給するという一定の役割を果たしていった。
シンフォギアXV」の序盤は調ちゃんのY字投球フォームとか序盤はGX(3期)以来の楽しさ。後半に関しては、こちら側と敵幹部陣と実はそのバックにいた黒幕の葛藤とか思惑とか悲哀を1クールに全部詰め込もうというのにやっぱり無理がある(「手続き感」が加速)と3期以降ずっと思ってる。

「慎重勇者」は画で頑張らないとどうにもならなそうなものを画で頑張ってどうにかした、コミカル作画技術の粋を集めたアニメ。急発進で目だけ置いてかれる演出とか今日日ひさびさ見た。

余談

その時その時の気分のようなものも大切にしているので良いと思ったアニメを選ぶと毎回一貫性があるんだかないんだかよく分からないラインナップが出来上がるが、強いて言えば「他所に出すのはちょっと恥ずかしい」…超可動ガール1/6の項で使ったこのワードが持つ精神は、自分が今年良いと思ったアニメ群を多かれ少なかれ貫いているのではないだろうか。
「他所に出しても恥ずかしくない」ものが追求される、或いは、「他所に出したら恥ずかしい皮を被った実のところ他所に出しても恥ずかしくないように適度に調整されている」もの(面倒くさい)が表通りを闊歩している中、見失っていた「他所に出すのはちょっと恥ずかしい」と隣り合わせの活力を持った作品がまだ息づいている…そんなイメージでアニメを見てみた時にこそ輝き始める作品に身を任せてみた。と、今年の「気分」に後付けで形を与えてみると、そういうことになるかもしれない。

*1:1シーズンおいての分割2クールで今年やったのは2クール目の方だが1クール目もまとめてここで評価

山行 8月 安達太良山 (沼尻登山口~胎内岩~鉄山~安達太良山山頂~船明神山~沼尻登山口)


  • 温泉流れる源泉地の谷歩きに始まり、岩くぐりから火口の周囲歩きとグッと来るシチュエーションの続く楽しいコースだった。
  • 腕まくりで肌晒していた両腕が赤くヒリヒリする程焼けた。ここ数年毎年夏のこの時期に福島の山を歩いているがここまで天気が良かった事がなく、「日焼け対策」が全く頭に無かった。樹林帯が少ないコースだったのもある。