「好き」とは違う何かで…(「文学の強み」・乗り物・大江健三郎・笙野頼子・後藤明生)

昨年NHKの100分de名著で大江健三郎「燃え上がる緑の木」が取り上げられていた。番組のように掻い摘んで解説されると「一体何が面白いんだ…」となってしまう作品なのだが(見れば見る程「大江なら普通に万延元年のフットボールなどでやっておけば…」と思ってしまった…諸々の事情によりそうもいかないのだろうけど)、大江作品の良さはもとより文学の強みのようなものを印象づける「とある部分」を含むがために、自分は好きな作品だ。

第三部前半、語り手のサッチャンが作品の一時的に作品の舞台となる伊豆からメインの舞台である四国の谷間へと帰ってくる一連の流れがその「とある部分」だ。サッチャンは、羽田から高知へ航空機→高知駅からバス→乗り合わせた女性客が嫌になって下車→歩いているうちに知人のトラックに遭遇→トラックに搭載されていたバイクへ…と、様々な乗り物を乗り継いで谷間へと帰還していく。

決して小気味よくとはいかない大江の文体と次々と外部に対する露出度の高い乗り物へと乗り換えていく過程のせめぎ合い、バス車内の少しユーモラスな「イヤな感じ」、トラックに搭載されていたバイクが荷台にではなく”運転台の後ろの風除けの下の箱型の部分“に載せられていたという描写、そしてこの帰還の過程が作中で触れられる魂の「上昇/下降」「右廻り/左回り」のモチーフと重なっていることも含めて、大江作品の一般的なイメージには無い、だが読んでいる人は知っている「そこに乗り物が現れた時の大江作品の魅力」(大江作品で乗り物が重要なモチーフになっていることは多く、例えばバスは大江作品で常に不穏な空気を漂わせている)が詰まった素晴らしい部分だ。大江作品が余程好きでないと手を出さないように思える大長編の後半でこの部分に出会えるという喜びも大きい。

乗り物といえば、笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」はそのかなりの部分が写実的というにはあまりに浮遊し、幻想的というにはあまりに湿っている(この絶妙なバランスこそが笙野頼子の小説の味だ)電車の車窓の描写で占められている。他の代表作「二百回忌」も鉄道に繋がりが深い。

大江健三郎笙野頼子…この二者が特別乗り物が「好き」かといえば、両者の作品をそれなりに読んできた自分としては、そんな事はないように思える。ただ両者の、乗り物の周りにある描写には単純な「好き」を越えた何かが渦巻いているということだけは言えるのではないか。そして、上で挙げた両者の小説の記述は、その表現そのものに加えて、それがある長さ・広がりをもった「小説」の中にある言葉である事によって(「燃え上がる緑の木」の帰還の過程が作中の他の部分のモチーフと関わっていたように)、「好きな人が好きなことについて書いた」文章と違う何かを提示する文章として存在している。文学は「好きでもないもの」について書くこと、「好き」とは違う「何か」で成立させる事が出来る。それが文学の強みだと自分は思う。

後藤明生の小説には「特別詳しいという訳ではないが」「特別好きという訳ではないが」式の前置きが頻繁に出てくる(“私は、いわゆるクラシック音楽愛好家ではない”ー「マーラーの夜」)。代表作「挟み撃ち」には自分が歴史的知識に疎く、知識を得ようとする努力さえしようともしない人間であるにも関わらず、なぜ名所旧跡の類を無視する事が出来ないのかを追究する一節がある。単純な「好き」とは違う、それでいて無視することの出来ない「何か」の周りをめぐるこの小説は、自分が読んだ日本の小説の中でいちばん好きな小説だ。

2019年の良かったテレビアニメ ~「他所に出すのはちょっと恥ずかしい」を信じる~

バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~

TCG世界観スピンオフアニメでまさか「仲良し田舎娘グループ(+都会から落ち延びてきたアイドル)が廃墟となった映画館を復興するために奮闘する」なんてモチーフが展開されるとは。
その他「記憶との対峙」「映画作り」などなど、今どきやっても単に「それっぽいだけ」「やってみただけ」に終わりかねないモチーフを扱い続けながらどのエピソードもその水準には留まらなかった。緩そうに見えて一定の緊張感が常に漂うアンビバレントな演出、新しい声優、抑制されたBGMがそれっぽいモチーフを扱われた時に否応なく上がるこちらのガードを解放。賛否両論(というかほとんど否…自分は好きだぞ)のキャラデザも、たぶんそれに貢献していたのだ。

放送中から流れて(掲示されて)いたヴァンガードのCMや山手線の駅広告は「彼女らはいずれアイドルになる」という現実を「(我儘ながら)正直このままでいて欲しい派」に容赦なく叩きつけてきたが、戻らない日々の輝きを切り取った映像だからこそ尊い本編と思うことにしよう。なんだかんだでいつか故郷に帰って日が来るかもしれないことを、作中の大人たちの有り様が示してもいるし。

ぱすてるメモリー

絶版コミックを探すこと(日常)と作品世界に入って冒険が出来ること(視聴者にとっては非日常だが彼女らにとっては日常)をフラットに「彼女らの日常」として演出した、「何か凄い事が始まる式」ではない語り始めの流儀を見せた1話は今年のアニメの1話で一番好きかもしれない。
澄み切った水のような1話に対しその後のコンセプトにはひっくり返ったが、単なるリスペクトとは違う方向の猥雑なパロティの流儀を見せてくれた。総じて「もうひとつの流儀」を見せてくれるアニメだったと言えよう。パロディの対象が単一の作品からあるジャンル広がった後半のノリでもっと見たかったかも。
忘れてはいけないのはエロカッコいいEDアニメーション。現状でもエロカッコいいが、担当アニメーターの同人誌にはもっとゴージャスなEDになる構想(コンテ)が。想定通り出来てたらどうなってたんだろう…。

叛逆性ミリオンアーサー

「実在性」(実写)「弱酸性」(ショートアニメ)とヤバい映像化作品を次々と送り出してきたミリオンアーサーがついに送り出した30分枠TVアニメ(普通これが最初では)。
前2つがパッと見で尖り過ぎていてこの「叛逆性」はいまいち世間では評価され難い向きがあるが、筆者は「叛逆性」によってミリオンアーサーが三冠を達成したことをここに宣言したい*1
個人的にアクア様を上回った雨宮天キャラ、団長こと団長アーサーが筆をへし折られたBL創作女子に「これからはそんなもので倒錯の変態世界に逃げ込まないで、全うな愛を育んでね☆」といまどき完全アウトなセリフを言い放つが言ってる奴が「お前が言うな」な大変態だからオッケーみたいな(5話)、お互いを認め合う事より無邪気に殴り合った結果として多様性が肯定される饗宴(カーニバル)感にフィクションの底力を見た。

あかほりアニメの血脈を受け継ぐスタッフも大きく関わり、「完成/未完成」「洗練/未洗練」どうこう以前に我々が時代の彼方に葬り去ってしまった(恥ずかしくて)ある種のアニメ活劇を、「恥ずかしいからどうだってんだ」とばかりに今ここに完成させた趣がある。

超可動ガール 1/6

良く出来てるモデリング&アクションに加えてあまりにまっとうにまっとうな「オタクネタ交えたSF」してて関心させられてしまった。とはいえ今どきオタクの欲望の表現としてもちょっと古さを感じさせる構図がベースにあるこのアニメ、ちょっと他所に出すのは恥ずかしいような…何せ他所に出しても恥ずかしくない(らしい)アニメには事欠かないご時世だ。
でもな、「まっとうだけど他所に出すのはちょっと恥ずかしいけどまっとう」…それが「オタクの本格(美少女)SF」って事だろ?ふたばにめ枠のアニメはどれもこの「他所に出すのは恥ずかしい」精神を保持しており好感が。ノーナのキャスティングもこれしかない感じで良かった。

ひとりぼっちの〇〇生活

あの三ツ星カラーズと同じ原作者の漫画が今年もアニメ化。だからってまた大傑作って事が果たしてあるだろうか…と身構えていたが杞憂に終わった。
話がどんなに情感的になっても、「アルちゃんいつ頭突き出すんだ…」みたいなアクション×サスペンスにピークポイントを持っていく所が多くのきららアニメに馴染めない自分でも好きになれる要因かも。

Re:ステージ! ドリームデイズ

星の数ほど生まれているアイドルアニメの後発組としては「アイドル事変」「音楽少女」のような野心のギラつくつくりでは決してない。ストレンジなネタも仕込んであれど、それだけをとってみれば数々の先達のものほど尖ったものではないような気もしてしまう。
要素ひとつひとつを点検するように振り返ると後発組としては致命的な「いたって普通」感に彩られているように思えてしまうこのアニメはしかし、守りに入った窮屈さとは無縁のエナジーを持っている。尖ったアピールポイントよりも「見ている間だけ捉える事が可能な、あるバランス感覚」(と、見守っているとクセになってくるみい先輩)で勝負しているかのような作品。アニメの最先端は何も尖った形をしてだけ現れるのではなく、こんな形をして現れるのかもしれない。

どるふろ 癒やし篇

なんか突如として放送されている感のあるドールズフロントラインのショートアニメ。あまりに突如過ぎて「実質ハオライナーズなんだから見なきゃダメだろ」との知り合いからの指摘がなければ見逃すところだった。
海外アニメらしい垢抜け過ぎない遊び心が画面に生きている、ほっこり楽しいショートアニメ。アリス・イン・ワンダーランドフォームをショートアニメで最大限展開したオタクシュルレアリスムな6話など必見。視聴方法が限られ過ぎているのが惜しい。
スタッフに加えスポットの当たるキャラも違う第2シリーズ「狂乱篇」が現在放送中で、いい感じに統一感があり過ぎない自在なデフォルメ作画と毎回違うEDアニメーションで楽しませてくれるのでこちらも必見。

その他

「サークレットプリンセス」は「今どきこのノリ」と水橋かおり成分を補給するという一定の役割を果たしていった。
シンフォギアXV」の序盤は調ちゃんのY字投球フォームとか序盤はGX(3期)以来の楽しさ。後半に関しては、こちら側と敵幹部陣と実はそのバックにいた黒幕の葛藤とか思惑とか悲哀を1クールに全部詰め込もうというのにやっぱり無理がある(「手続き感」が加速)と3期以降ずっと思ってる。

「慎重勇者」は画で頑張らないとどうにもならなそうなものを画で頑張ってどうにかした、コミカル作画技術の粋を集めたアニメ。急発進で目だけ置いてかれる演出とか今日日ひさびさ見た。

余談

その時その時の気分のようなものも大切にしているので良いと思ったアニメを選ぶと毎回一貫性があるんだかないんだかよく分からないラインナップが出来上がるが、強いて言えば「他所に出すのはちょっと恥ずかしい」…超可動ガール1/6の項で使ったこのワードが持つ精神は、自分が今年良いと思ったアニメ群を多かれ少なかれ貫いているのではないだろうか。
「他所に出しても恥ずかしくない」ものが追求される、或いは、「他所に出したら恥ずかしい皮を被った実のところ他所に出しても恥ずかしくないように適度に調整されている」もの(面倒くさい)が表通りを闊歩している中、見失っていた「他所に出すのはちょっと恥ずかしい」と隣り合わせの活力を持った作品がまだ息づいている…そんなイメージでアニメを見てみた時にこそ輝き始める作品に身を任せてみた。と、今年の「気分」に後付けで形を与えてみると、そういうことになるかもしれない。

*1:1シーズンおいての分割2クールで今年やったのは2クール目の方だが1クール目もまとめてここで評価

山行 8月 安達太良山 (沼尻登山口~胎内岩~鉄山~安達太良山山頂~船明神山~沼尻登山口)


  • 温泉流れる源泉地の谷歩きに始まり、岩くぐりから火口の周囲歩きとグッと来るシチュエーションの続く楽しいコースだった。
  • 腕まくりで肌晒していた両腕が赤くヒリヒリする程焼けた。ここ数年毎年夏のこの時期に福島の山を歩いているがここまで天気が良かった事がなく、「日焼け対策」が全く頭に無かった。樹林帯が少ないコースだったのもある。

2018年の良かったテレビアニメについて ー〈洗練された粗暴〉の時代がやって来た。のかもしれない。

2018年冬シーズン

三ツ星カラーズ

上野で三色と言われてはじめパチスロしか連想しなかった*1が、全然そんなアニメではなかった。全編通してひとつひとつの身振りが輝いていた名作だと思うのだが見られなさ過ぎにも程があるような。放送も折り返しを迎える頃にはみんなあの頃「にゃんぱすー」って言ってたくらい「おつカラーズ」って言ってるはずだと思ってたのに…。

よりもいゆるキャン△などどこかへ行くアニメが話題を呼んだシーズンだったが、走り回った距離では上野からほぼ出なかったカラーズ、お前らがナンバーワンだ…

伊藤潤二コレクション」

いまさらこれに驚いてると原作ファンに怒られるやつだと思いつつも、毎回全編名言名シーンでほんとひっくり返った。ホラーと聞いてまず想像するだるーい部分を全部きっちりと裏切ってくれて爽快。

一応原作もいくつか読みましたが、アニメは尺が短い故の省略がドライブ感を生んでいて、安々と「原作さえ読んでれば見なくていい」とは言わせないものになっていると思う。

メルヘン・メドヘン

序盤の、先輩の実家から(主人公の魔法の練習のため)送ってきた子供時代のおもちゃに書いてあった名前で先輩の本名を知るくだりのような素敵にジュブナイルな細部が飛び出てくる企画とは全然期待してなかったアニメ。多人数バトルの真骨頂を見せた8話は傑作回。

確かにまぁ途中いろいろあって、それより何より最終回まで放送されていない訳ではあるが、合間に8話のようなひたすら楽しく作画的に高度な事もやってる大傑作回があったアニメだという事は強調しておきたい。

シーズン総括

個人的に楽しいアニメは沢山あったが、よりもいみたいな真っ当にいいアニメ感がある傑作だけ評価されてるかのような状況にどう抵抗していけばいいのか悩む精神的にキツいシーズンだった。

2018年春シーズン

Cutie Honey Universe

異世界スマホ3話で最高の画面を見せてくれた横山彰利が監督の、唸る画面づくりを垣間見せてくれた一作。イセスマと同時期の再放送で再見してイセスマ3話と同じ方向にすげーなとなった「シンフォギアG」4話コンテの若林厚史が副監督である事に運命的なものを感じた。

全体的に見るとどうしたもんかちょっと困る作品ではあったものの、自分が思う「〈気持ちいいアニメのアクション〉は絶対こっち!」という方向性の画面を見せてくれた事には変わりない。鬼太郎OPに「この曲もういいだろ」と思わされてた頃なので、あのOPの呪縛を断ち切ったのは偉い(平成ベム並みに)。要所であのテーマがかかってくるみたいなアニメだったら絶対嫌だったし。マリワカ、イセスマ、そしてこれ…A応Pオープニングアニメすげえ。

LOST SONG

今どき「なんなのこのアニメ…」ってなれる体験。楽しくない?狂気というには生真面目過ぎ、真っ当というにはトンチキすぎる…故の「なんなのこのアニメ…」。そこだけが凄いアニメじゃないんだが、いきなりインタビューが始まる8話など凄まじい。もうこれからは女子高生が2人並んでスマホいじってたら世界が滅びる気しかしない。

「アル(「男の子!男の子!」)が巨大ロボに乗って再登場してくる」「全員現代転生してガールズバンドやる」*2という自分の終盤の展開予想はすべて外れた。

シーズン総括

面白いけど油断すると「単につまんないだけ」の谷に落ちかねない綱渡りタイプの、毎回ハラハラしながら見守らなければいけない(それこそが「見る」という体験なのではあるが)作品が多くて楽しくも体力・精神力の要るシーズンだった。

2018年夏シーズン

「音楽少女」

「GF(仮)」、「えとたま」…連綿と続く人口密度アニメの血脈。誰が誰だかを分かってもらうようなやり方をしないで誰が誰だかが浮かび上がってくるようなそんな作品が好き。

異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術

発揮の方向性に大きな違いはあるが、同シーズンの音楽少女と並んで、長期放送コメディアニメを仕切っていたスタッフの技を感じた。それに加えてこの手の原作にありがちなヤな感じの小賢しさがないからか、楽しく見れてしまった。そして芹澤優…エデルガルト(加藤英美里)の変なしゃべり方も好き。ゴブスレの魔女の喋り方は…下半期で日笠の変な喋り方が良かったのはゆらぎ荘のナレーション。

はるかなレシーブ

競技を扱うことに関して(例えば「いっぺんやめた競技になぜまた戻ってくるのか」とか)同シーズンのはねバドがやってた事が首を捻るものだっただけに、こちらの圧倒的正しさが際立った印象だし、毎回水着だし、サイン出すからケツがアップになるし。

同時期にやってたNHKのスポーツ番組のビーチバレー特集を見たのだが、水着は面積小さいほうがズレる危険性が低く安心出来るらしい。

「邪神ちゃんドロップキック」

「リミテッドアニメとして発展してきたジャパニーズテレビアニメーションの洗練」というものを考えた時、ガイナックス-トリガーラインとは違った方向での洗練、そのひとつの到達点がここにあるように思えるのです。2018年神保町で友人に金を貸しまくった(しかも一度はさぼうるで)自分は完全にメデューサちゃんだと思う。

ゆらぎ荘の幽奈さん

以前はてなかどこかで「今期アニメで活劇として成立してるのはToLOVEるダークネスだけ」と言っていた人*3がいた気がするのですが誰か覚えてないでしょうか?アニメが活劇から遠ざかりドラマへと堕しがちなこの状況下、ラッキースケベだけがアニメを活劇へと繋ぎ止めるというその論旨には強い「ずっと言いたかったことを言ってくれたぜ」感を持ったものです。

そしてこれは(同じジャンプラブコメ原作アニメだという事を抜きにしても)たぶんそういう意味での活劇として成立しているアニメ。対魔忍(ではない)殿が公園で服を溶かす妖怪と戦うエピソードには言葉の原義的な意味での「コスチューム・プレイ」を感じた。「活劇」も「コスチュームプレイ」もなんだかハスミタームだな。2018年、最も蓮實重彦に近かったアニメ、ゆらぎ荘という事で。

シーズン総括

普通に楽しくて露出度が高いアニメ群と作り始めた美少女プラモ(FAガール・メガミデバイスなど)のおかげで上半期の精神的な疲れが取れた。

2018秋アニメ

ユリシーズ ジャンヌ・ダルクと錬金の騎士」

稲垣隆行(前期では「ちおちゃんの通学路」監督)と並ぶ「洗練された粗暴」勢ともいうべき板垣伸監督が、全話監督コンテで日常的な空間把握形態をぶった斬り、アニメ時空を現出。ほぼ毎回ひっくり返ってた。

「あかねさす少女」

スマホゲー同時展開・やや垢抜けないキャラデザイン・少しトボけたテイスト・変身して割とバリバリと戦闘(序盤比では同じ桂正和キャラ原案のダグ&キリルより余程激しく戦ってたような)のハイブリッドで紡がれるのはしかし、真っ直ぐなジュブナイルだった。今このバランスで作られてしまうアニメ、愛すしかない。どうしたって藤子アニメを思い出させてしまう(自分がキテレツとか好き過ぎるだけか?)のが個人的に好ポイント。アストラルモジュールと同型のウォークマン(親の)が昔実家にあって遊び道具にしてたんですが、帰省時探したら無事捨てられてました。

閃乱カグラ SHINOVI MASTER -東京妖魔篇-」

5話、とにかく5話。1話で「うーん?」2,3話で「意外と悪くないんじゃ?」となり5話で最高な回が来る流れは「Sin七つの大罪」を思わせる(中身は別に似ていないと思うが、流れだけ)。だから、もう1回くらいすごい回がある(七つの大罪の入院回良かったですね…)と思ったのだが…でも5話があるからいいか。SAKUGA寄りなのからTVアニメ~なキッチュなやつまで、アクション演出/表現のごった煮な傑作回。これこそがTVアニメのアクション回だ。

シーズン&1年の総括

画一的な基準で推し量られた「真っ当なアニメ」に「〈洗練された粗暴〉のようなアニメ」が虐げられ追い詰められている…近年ずっとそんなイメージでこのアニメ界を観察していたが、2018年ラストシーズンに「ユリシーズ」などを迎えつつ気付いた。「〈洗練された粗暴〉アニメ、案外あるじゃん」。

上に並べ立てた決して少なくない数のアニメの殆どに〈洗練された粗暴〉が見え隠れするのは言わずもがな。書かなかったアニメでは「ちおちゃんの通学路」(名前は出してる)なんかも結構そうだし。上半期に感じていた苦境感は、下半期に一気に希望に転じたといえよう。結局こっちがアニメを諦めかけても、アニメがこっちを離してくれないものなのだ。来年は変な切迫感に苛まれる事なく「闊達に見ていく」ということと、「見ることは闘い」ということとを両立させていければ。

 

あー「TO BE HEROINE」なんかも良かった。「ユリシーズ」とは全話監督コンテつながり。中国原作系だと途中「大丈夫か?」ってなったものの「軒轅剣」もなかなか…

*1:上野にはパチンコ・パチスロメーカーの本社が集中&赤青黄はパチスロの子役 チェリー/リプレイ/ベルを象徴する色

*2:これ弟に話したら「それノブナガ・ザ・フールだから」と言われた。そうなの?(自分は未見)

*3:まっつねという人のブログの山内重保に関するエントリーに山内重保演出への苦言コメントを残していたのが印象に

映画「若おかみは小学生!」私記

風呂に入らないのはアニメではないので温泉旅館が舞台という時点で一応ある程度アニメであろうという事はとりあえず約束されているのだが、見始めてすぐ「よく考えれば(特にデフォルメ寄りのキャラの)日常芝居をしっかり作画されるのそんなに好きじゃないんだよ…」という事を思い出す。それもあいまって「良く作ってあるけどこれ自分が客なアニメじゃないなー」と半ば途方に暮れつつあったのだが、グローリー・水領先生が出てくるあたりから持ち直しはじめ、主人公のキャラソン流れてネコミミコスの幼女(幽霊)がサブリミナル気味に突如挿入される(おっこと水領先生の会話中に唐突にカットインされるので本当にビビる)買物シーンあたりから「ここは俺の領分(アニメ)だぜ」と幾分なってくる。

結局自分が「THE 作画」を許せるのはTVアニメのOPEDアニメーション含めPV・MV的もの(非ライブシーン)と組み合わされた時だけけなのかもしれないと思わされた。あと破壊。日常芝居ちゃんと作画されるの嫌いだなと考えた時に「でもWHITE ALBUMのマナが机ぶちまけるシーンとかは好きだな…」とか思ったがあれは破壊シーンなんだ(一方、非日常の身振りがベースにある作品で良作画で物がぶっ壊されても破壊に思えないシーンというのもある)。

面白い「非」の咲き乱れる作品を…(『LOST SONG』他)

LOST SONG』(1~3話)

1話冒頭1分間の「これは完全に自分が好きなタイプのアレなファンタジーアニメなのでは…」感は『聖戦ケルベロス 竜刻のファタリテ』以来のものがあったが、そこからの進み行きはだいぶ異なる。

ゲーム屋ファンタジーアニメの生きる道は3つ(と書いている途中でこれゲーム原作じゃないなと気づいてしまったがまぁMAGES.はゲーム屋みたいなものだろう)。すなわち、『イクシオンサーガDT』『シャイニング・ハーツ』『神撃のバハムート』…そう考えてみると*1、このアニメはどの方向にも寄り添わずに生きる道を模索しようとしているように見える。ファンタジーシンフォギアがやりたかったのかとも思ってしまうが、その割には普通な部分が普通過ぎる…が、地形を活かしたジャンプ蹴りなど、単に普通過ぎるで片付けるにはあまりにもトンチキな細部が煌めいているのも確かだ。

鈴木このみが唄うならヒロインはこんなに幼くなくていい気がするし、ケバい吟遊詩人はこんなにケバくなくてもいい(なんかマジカルハロウィンのキャラに似ている気がする)と思うし、「投げた爆弾がリンゴに…」みたいな場面転換する必要もない気がするし…この作品は数々の「そうじゃなくても…」=「なんでそうなの?」で彩られている。そんな作品を見守る事は、時に「それしかない」という必然に安住した作品を見守よりも刺激的な体験となる。

非の打ち所がない作品より面白い「非」が咲き乱れる作品を!

と嘗て書いたのは中原昌也*2。様々な「非」が折り重なり、インチキ臭いバランスで何かが築き上がっていく…のか?今後も見逃せない。

 

ラストピリオド』(1~4話)

毎回同じように飛び出てくる依頼・1話で出てきて溶け込んだキャラの色違いが2話で出てきてこいつも並んで溶け込む…など、魅力的なフォームをたくさん持っている分、こんな感じでネタに走らなくてもなーと思ってしまう。

ネタ的な部分に関しては、原作キャラデザにBLADEに近いものがあるだけに、どうしても比較対象として『まかでみ・WAっしょい!』が立ち上って来てしまい、あの攻め方に比べると…となってしまう。

4話、冷静に考えてひぐらしキャラが出てくることより、菊地美香ヒロインがいることの方が凄いんだよ。

*1:聖戦ケルベロス 竜刻のファタリテイクシオンサーガDTの道を歩みそうで実は全然違った意欲作

*2:著書『エーガ海に捧ぐ』の、映画『メメント』に対しての言。面白い「非」が咲き乱れる映画の好例として挙げられているのは『ワイルドシングス

どうやら今年もテレビアニメで〈アクションシーン〉を見ることはまだ可能であるようだ(『キューティーハニー ユニバース』他)

キューティーハニー ユニバース」(1話,2話)

リブート作品という事で制限される部分、無茶ができる部分があると思うのだが、無茶ができる部分をちゃんと無茶している。1話戦闘シーンの時間感覚など完全にぶっ飛んでいて、絵柄だけではない部分でサイケデリック

単なる隔離空間ではない特異な空間で敵と戦う事、そこから導き出されるワンダーな決まり手を画面で描出した2話のクライマックス戦闘は、「このアニメのアクションの規則」をきっちり提示している。切り裂いた空間が切り裂かれたまま残っている所などもいい。横山彰利監督は昨年コンテを担当していた「異世界はスマートフォンとともに」3話も素晴らしかった。昨年は(「銀の墓守り」と合わせて)「異世界はスマートフォンとともに」3話に「どうやらテレビアニメで〈アクションシーン〉を見ることがまだ可能であるらしい」と救われた部分があったが、「どうやら今年もテレビアニメで〈アクションシーン〉を見ることはまだ可能であるようだ」と、春シーズンになって同スタッフに分からされる事になった。

2話、「水」流のような空間で戦っている所の回想からの現在への場面転換という事で、ボトルの炭酸「水」のアップから現在へ場面転換…というのがあるのだが。こういう「上手いがまぁ(映像に関わる人間なら)これくらいはやるだろう」という所をわざわざレビューのようなもので褒めるべきかどうかいつも悩ましい。こんな所をわざわざ褒めると失礼に値するのでは?という意味で。

ウマ娘プリティーダービー」(1~4話)

変わった事は何もやっていないように見えて、なぜか気持ちよく見れてしまう。走るというのは歌ったり踊ったり戦ったりに比べてシンプルな運動の反復で、勝ち負けもはっきりしている。そういうものを改めて見守ってみることの気持ちよさがあるのか。競技の試合そのものがシンプルなのが分かっていると、その外側で勿体つけた事をやってしまいそうだが、展開にそういう勿体つけた部分もなく、爽やか。4話、トレーナーを4人並んで蹴り飛ばす所の勢い、良い。

ハイスクールD×D HERO」(1話)

CMで下準備がされていたおかげで「歌…?」というセリフで「まさか…」となれる。よりもいの後にまで流しまくった甲斐があったというもの(TV視聴者にしか関係ないが)。

それはともかく、分かるような分からないような人物が突然現れて、空をとんでいるもの(竜)を指差して何かを言い、すぐ去っていくのが格好良かった。