作品を「問い」に変えずに「ここ」に踏みとどまること


作品について、本当は「"ここ"(ある具体的な、画面・音・言葉の連なり/広がり)が良かった」というだけの感想がもっと言われていいのだといつも思う。しかし「"ここ"が良かった」というだけの感想は、単にそれだけでは、言表の資格を持たず、「ここ」が「どう」「なぜ」良かったかにまで早急に踏み込まなければならないと多くの人は思い込んで(思い込まされて)いる。さらに言えば、「"ここ"が良かった」というだけの感想より、「どう」「なぜ」良かったにまで踏み込んでいる感想の方がある種の「重み」を持つと強く思ってすらいる。
結果、「どう」「なぜ」に応える為に作品という具体的な連なり/広がりを収まりのいい構図=「問い」の形に配列変換していくだけの行為が横行してしまう事になる。
「ここ」に踏みとどまり、「ここ」を掴むことに向き合った結果の混濁した苦闘の記録は、作品を整理し「なぜ」「どう」にきっちり応えたクリアな言説よりも重みを持つのではないか。
「どう」「なぜ」に踏み込まず(作品を「問い」に変換せず)、「ここ」(ある具体的な、画面・音・言葉の連なり/広がり)に何があったのかを掴む地点に踏みとどまること。確固たる足場は期待出来そうもない。作品をめぐる全ての「問い」には「さあ?」と応え続けなければならないし、他人に作品を通して感じた事をクリアに伝える事も諦めた方が良さそうだ。
具体性のある事が何も言えなくなってしまうような気もするのだが、作品にある画面・音・言葉の連なり/広がりが「在った」ということを確かに指し示すことは、それだけでひとつの具体性なのではないかと思う。むしろ作品を「どう」「なぜ」という問いに応えるために、体のいい構図に配列変換する態度こそひとつの抽象性に他ならないのではないか。しかし「在った」(在る)とは何なのだ?