画面が「繋がっている/繋がっていない」「もっている/もっていない」

青山真治が対談で最近の大河ドラマを画面が全然繋がってないと言っていてどんな基準で言ってるのか気になってしまった(「誰が誰を見てるのか分からない」という基準はひとつ挙げられているのだが、どうもそれだけではない気配が漂っているのだ…)のだが、万田邦敏木下恵介の映画について画面の繋ぎが全く気持ちよくないので好きになれなかったという事を言っている評論にて、「画面が繋がっている/繋がっていない」ことの基準に関して「気分で測って許される事ではないが、かなりの部分、気分である事も確かだ」という趣旨の事を言っていて、頗る感覚的な部分を基準にしているのだなあと思ったと同時にその潔さに嬉しくなってしまった。
「画面が〈繋がっている/繋がっていない〉」に近い言い回しで、「画面が〈もっている/もっていない〉」というのもある。
青山真治の映画にも万田邦敏の映画にも最後まで「画面がもっている」感じがある。なんだか基準はよく分からないが画面が「繋がっている」「もっている」ことに敏感に反応している人たちが撮っている映画が、なんだか基準はよく分からないが画面が「繋がっている」「もっている」感じがする映画になっているという事実は頼もしいものがある。