面白いと思わなくてもいい「自由」「隙間」「あそび」に向かって


保坂和志が"「面白い」という事がたいして重要な事だとは思わない"という風な事を書いている文章があるらしいのだが、あるムックにしか入ってない文章らしく、まだ読めていない。
それはさておき、ある種の「面白い」作品に"これは「面白い」というより単に「面白いと思わなくてもいい自由がない」だけではないのか"と感じてしまう事は多い。
あるハリウッド映画が日本のテレビアニメに比べてよく出来ているという風な言い方がされる時の「よく出来かた」「面白さ」はしばしばこれに近い。もちろんこの手の言い方がされるからといって日本のテレビアニメ全てがこの種の「面白いと思わなくてもいい自由がない」だけの「面白さ」と無縁という訳でもない。
「面白いと思わなくてもいい自由がない」というのは、もう少し具体的に言えば、作品の諸要素が「受け手を惹きつける=求心力」のような狭義の「面白さ」の為に組織されていて*1、そういう狭義の面白さとは無縁の「隙間」「あそび」が無いという事だ。
実際問題、ほとんどの(狭義の)「面白さ」を目指す創作論は単に「つまらなさから逃げる方法」を説いているだけで、すなわち「面白くないと思われない方法」程度しか語っていない。
強迫観念的につまらなさを回避しようとする構築によって面白さを得ようとする作品からは、やはり強迫観念的な面白さしか与えられず、自分と作品がなんらかの関係を取り結んでいるという気がしない。面白くしかないものを面白いと思っても「面白いと思っている」という事にはならないのではないか。
「面白くないと思ってもいい隙間・あそび」が残されている作品…或いはその「隙間・あそび」そのものを面白いと思う事が出来て、(「思う事が出来て」というより「"信じる"事が出来て」と言ったほうがいいかもしれない)はじめて、自分が作品にポジティブな感情を抱いているという事になると思う。


「面白さ」が「(半ば強迫的な)求心力がある」とかその程度の事しか意味しないのであるならば、自分にとってはそんな意味で作品が「面白い」事よりも作品に「何か」がある事のほうが重要で、つまらなくても「何か」があれば「狭い意味で面白い」だけよりもずっといい。「何か」って何だ?と問われれば、「知るか」としか言いようが無いのであるが。

*1:そのような組織の仕方のなかにあの「展開」と呼ばれるものがあったりする訳だが、自分は作品に「展開」なるものが必須だとも思わない