後藤明生『笑坂』

最近「先々週の水曜に往来座に行ってかるかやでうどんを食べた…が、なんで水曜に往来座が開いてたのか…あれは本当に水曜だったのか…」と考え込む事があったり、北部九州の方言では嘘のことを今でも「空事(ソラゴト)」(訛って「スラゴツ」となる)と言う事について思い出したりする事があったのだが、ちょうど読んでた後藤明生の『笑坂』にある1日が水曜なのかどうか分からなくなる短篇があったり、北部九州の方言の「スラゴツ」にいて書いてある短篇があったり、ほんとに後藤明生の小説は怖いと思った。
やはりある種の「外部」として北部九州の方言に触れた人間にとって「空事=スラゴツ」は印象に残らざるを得ない言葉なのだろうなぁ…とも。

ポン・ジュノ『スノーピアサー』…一行はなぜ寿司を無事に食べおおせたのか

 「ちょうど一年かけて世界を一周している列車が、毎年ある長大な橋梁を渡る瞬間に新年を迎える事になっている」というだけでもかなりくるものがあるのだが、その瞬間が二者の睨み合いの緊張が頂点に達した瞬間に訪れて、その後線路上の障害物を砕く衝撃の為に二者が平等に伏せ、長大なトンネルに列車が突入する事で二者の均衡状態が一気に崩壊するというのだからとんでもない。それはさておき…


 矩形を組み合わせた立体であるところの直方体。そんな直方体を基とした鉄道車両に住まい、直方体のプロテインを主食とする人々の反乱は、そんな鉄道車両を連ねたところの「スノーピアサー」の編成に円筒系のパイプを突き通す事から始まる。矩形によって保たれている均衡が円の登場によって掻き乱されるという規則にスノーピアサーは縛られていて、それ故に矩形のまな板に乗せられた寿司という直方体を置かれた立場からは不自然なまでに無事に食べおおせた面々は、卵という楕円に出会った瞬間無事ではいられない。カーティス一行が寿司を無事に食べおおせたのは、ひとえにそれが直方体の食物であったからなのだ。
 それでも矩形と円の対立がスノーピアサーの車内に収まっている限り、抗争の「縦の力学」(突き通されるパイプ・車両を一両一両突破していく反抗の進みよう・車両を軸とした睨み合い)は崩れる事はなかった。しかし、その編成の構造を支えている外枠=レールがループ橋という円型と出会った瞬間、その抗争に客車の窓越しでの打ち合いという「横の力学」がもたらされ、矩形の窓には丸い穴が穿たれる。そして前半を支配していた縦の力学とは対照的なこの横の力学が、横/側面=外部へと導き、後半新たに加わる反抗のプランと連関していく事になる。

『えとたま』2話

 見れば見るほど素晴らしい高人口密度日本家屋アニメ。全編通してずっと家に居たとは思えないこの開放感(結構な広さを持った仮想空間でのバトルを待つまでもなく、それは感じられる)は一体なんなんだろう…
 台所と居間がつづきになってる中、三歩歩く事で(敷居を跨ぐ事で)記憶を失うやつが、今を忘れない為に台所の側に留まろうとする…というのなど本当に良い。
 この「三歩の重み」とか、にゃーたんとモーたんのバトルを全員が固唾を飲んで見守るかというとそういう訳でもなく台所の片隅で割りと小さめなビジョンを通して数人が見てるだけというような、1話で「干支をいかに覚えてもらうか」という事に皆で集中していたのとは対照的なある種の「まとまらなさ」とか、その辺がこの狭い空間に実際の面積とは無縁の広がりを与えている気がする。


縁側からみれば庭は「舞台」で、庭から見れば縁側が「舞台」と、そういうのもあった。

ジョン・フォード『周遊する蒸気船』…「映画」を燃やして進む船

そこまで映画を駆動させてきた人々が、そこまで映画を駆動させてきた物々を火にくべて蒸気船の最後の燃料とする。そして映画を駆動させてきた物々(蝋人形、薬酒、そして自らの船体すら)を飲み込んだ蒸気船は、そんな物々たちを景気良く燃やし尽くしながら「映画の終わり」へと向かって突き進む!


なんかジョン・フォードは西部劇以外の方が好きになれる気がする。

2015年冬アニメ 言う事思いついた分だけ

艦これ

序盤はシンデレラガールズより面白いだろくらいには思ってた。島風探す流れとか良かった。
後半は夕立が発光し始めてるのとか超面白かった。
実際のところこれの対照好例がシンデレラガールズっていう考え方がよく分からない(シンデレラガールズがつまらんという事ではない)が、両者ともGF(仮)の4話を超えるエピソードをひとつも持っていない(シンデレラガールズの場合「今のところ」)という点は共通している。

ユリ熊嵐

「自分が向いてないというだけで作品の側は悪くないなと思える」という感じのはやはり途中で見なくなってしまうのだな…という訳で最後まで見ていない。『キルラキル』とか「この世の諸悪の根源としか思えない」みたいなのは絶対に最後まで見る。

新妹魔王の契約者

7話は(Gレコを除いた)このシーズンのアニメのエピソードの中でたぶん一番好き。

SHIROBAKO

序盤の、「話の中心」みたいな所に諸要素を収斂させていかない所が好きだったので、後半は「まぁこうするしかないのかなぁ」という感じだった。結局「面白いお話」程度の(「何か」に向かって全てを収束させていく程度の)所に落ち着いた感がある。

御都合主義ということ

革命機ヴァルヴレイヴ』の2話だか3話だか4話だかで「エルエルフを拘束していたのが荒縄だったのがおかしい」という人達がいたのが当時よく分からず、そんなのエルエルフのその後の「運動」を準備する為の装置として当然だろうとしか思えないのだった。
ほとんどのアニメ語りは御都合主義を欠点として否定するか、「見逃してやってもいいポイント」として「見逃してやってもいい理由を並べ立てる」といった所に留まっている。ネタとして笑って楽しむというのも逃げであって、本当は「御都合主義こそ真の洗練である」という視座が必要なのである。