2018年の良かったテレビアニメについて ー〈洗練された粗暴〉の時代がやって来た。のかもしれない。

2018年冬シーズン

三ツ星カラーズ

上野で三色と言われてはじめパチスロしか連想しなかった*1が、全然そんなアニメではなかった。全編通してひとつひとつの身振りが輝いていた名作だと思うのだが見られなさ過ぎにも程があるような。放送も折り返しを迎える頃にはみんなあの頃「にゃんぱすー」って言ってたくらい「おつカラーズ」って言ってるはずだと思ってたのに…。

よりもいゆるキャン△などどこかへ行くアニメが話題を呼んだシーズンだったが、走り回った距離では上野からほぼ出なかったカラーズ、お前らがナンバーワンだ…

伊藤潤二コレクション」

いまさらこれに驚いてると原作ファンに怒られるやつだと思いつつも、毎回全編名言名シーンでほんとひっくり返った。ホラーと聞いてまず想像するだるーい部分を全部きっちりと裏切ってくれて爽快。

一応原作もいくつか読みましたが、アニメは尺が短い故の省略がドライブ感を生んでいて、安々と「原作さえ読んでれば見なくていい」とは言わせないものになっていると思う。

メルヘン・メドヘン

序盤の、先輩の実家から(主人公の魔法の練習のため)送ってきた子供時代のおもちゃに書いてあった名前で先輩の本名を知るくだりのような素敵にジュブナイルな細部が飛び出てくる企画とは全然期待してなかったアニメ。多人数バトルの真骨頂を見せた8話は傑作回。

確かにまぁ途中いろいろあって、それより何より最終回まで放送されていない訳ではあるが、合間に8話のようなひたすら楽しく作画的に高度な事もやってる大傑作回があったアニメだという事は強調しておきたい。

シーズン総括

個人的に楽しいアニメは沢山あったが、よりもいみたいな真っ当にいいアニメ感がある傑作だけ評価されてるかのような状況にどう抵抗していけばいいのか悩む精神的にキツいシーズンだった。

2018年春シーズン

Cutie Honey Universe

異世界スマホ3話で最高の画面を見せてくれた横山彰利が監督の、唸る画面づくりを垣間見せてくれた一作。イセスマと同時期の再放送で再見してイセスマ3話と同じ方向にすげーなとなった「シンフォギアG」4話コンテの若林厚史が副監督である事に運命的なものを感じた。

全体的に見るとどうしたもんかちょっと困る作品ではあったものの、自分が思う「〈気持ちいいアニメのアクション〉は絶対こっち!」という方向性の画面を見せてくれた事には変わりない。鬼太郎OPに「この曲もういいだろ」と思わされてた頃なので、あのOPの呪縛を断ち切ったのは偉い(平成ベム並みに)。要所であのテーマがかかってくるみたいなアニメだったら絶対嫌だったし。マリワカ、イセスマ、そしてこれ…A応Pオープニングアニメすげえ。

LOST SONG

今どき「なんなのこのアニメ…」ってなれる体験。楽しくない?狂気というには生真面目過ぎ、真っ当というにはトンチキすぎる…故の「なんなのこのアニメ…」。そこだけが凄いアニメじゃないんだが、いきなりインタビューが始まる8話など凄まじい。もうこれからは女子高生が2人並んでスマホいじってたら世界が滅びる気しかしない。

「アル(「男の子!男の子!」)が巨大ロボに乗って再登場してくる」「全員現代転生してガールズバンドやる」*2という自分の終盤の展開予想はすべて外れた。

シーズン総括

面白いけど油断すると「単につまんないだけ」の谷に落ちかねない綱渡りタイプの、毎回ハラハラしながら見守らなければいけない(それこそが「見る」という体験なのではあるが)作品が多くて楽しくも体力・精神力の要るシーズンだった。

2018年夏シーズン

「音楽少女」

「GF(仮)」、「えとたま」…連綿と続く人口密度アニメの血脈。誰が誰だかを分かってもらうようなやり方をしないで誰が誰だかが浮かび上がってくるようなそんな作品が好き。

異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術

発揮の方向性に大きな違いはあるが、同シーズンの音楽少女と並んで、長期放送コメディアニメを仕切っていたスタッフの技を感じた。それに加えてこの手の原作にありがちなヤな感じの小賢しさがないからか、楽しく見れてしまった。そして芹澤優…エデルガルト(加藤英美里)の変なしゃべり方も好き。ゴブスレの魔女の喋り方は…下半期で日笠の変な喋り方が良かったのはゆらぎ荘のナレーション。

はるかなレシーブ

競技を扱うことに関して(例えば「いっぺんやめた競技になぜまた戻ってくるのか」とか)同シーズンのはねバドがやってた事が首を捻るものだっただけに、こちらの圧倒的正しさが際立った印象だし、毎回水着だし、サイン出すからケツがアップになるし。

同時期にやってたNHKのスポーツ番組のビーチバレー特集を見たのだが、水着は面積小さいほうがズレる危険性が低く安心出来るらしい。

「邪神ちゃんドロップキック」

「リミテッドアニメとして発展してきたジャパニーズテレビアニメーションの洗練」というものを考えた時、ガイナックス-トリガーラインとは違った方向での洗練、そのひとつの到達点がここにあるように思えるのです。2018年神保町で友人に金を貸しまくった(しかも一度はさぼうるで)自分は完全にメデューサちゃんだと思う。

ゆらぎ荘の幽奈さん

以前はてなかどこかで「今期アニメで活劇として成立してるのはToLOVEるダークネスだけ」と言っていた人*3がいた気がするのですが誰か覚えてないでしょうか?アニメが活劇から遠ざかりドラマへと堕しがちなこの状況下、ラッキースケベだけがアニメを活劇へと繋ぎ止めるというその論旨には強い「ずっと言いたかったことを言ってくれたぜ」感を持ったものです。

そしてこれは(同じジャンプラブコメ原作アニメだという事を抜きにしても)たぶんそういう意味での活劇として成立しているアニメ。対魔忍(ではない)殿が公園で服を溶かす妖怪と戦うエピソードには言葉の原義的な意味での「コスチューム・プレイ」を感じた。「活劇」も「コスチュームプレイ」もなんだかハスミタームだな。2018年、最も蓮實重彦に近かったアニメ、ゆらぎ荘という事で。

シーズン総括

普通に楽しくて露出度が高いアニメ群と作り始めた美少女プラモ(FAガール・メガミデバイスなど)のおかげで上半期の精神的な疲れが取れた。

2018秋アニメ

ユリシーズ ジャンヌ・ダルクと錬金の騎士」

稲垣隆行(前期では「ちおちゃんの通学路」監督)と並ぶ「洗練された粗暴」勢ともいうべき板垣伸監督が、全話監督コンテで日常的な空間把握形態をぶった斬り、アニメ時空を現出。ほぼ毎回ひっくり返ってた。

「あかねさす少女」

スマホゲー同時展開・やや垢抜けないキャラデザイン・少しトボけたテイスト・変身して割とバリバリと戦闘(序盤比では同じ桂正和キャラ原案のダグ&キリルより余程激しく戦ってたような)のハイブリッドで紡がれるのはしかし、真っ直ぐなジュブナイルだった。今このバランスで作られてしまうアニメ、愛すしかない。どうしたって藤子アニメを思い出させてしまう(自分がキテレツとか好き過ぎるだけか?)のが個人的に好ポイント。アストラルモジュールと同型のウォークマン(親の)が昔実家にあって遊び道具にしてたんですが、帰省時探したら無事捨てられてました。

閃乱カグラ SHINOVI MASTER -東京妖魔篇-」

5話、とにかく5話。1話で「うーん?」2,3話で「意外と悪くないんじゃ?」となり5話で最高な回が来る流れは「Sin七つの大罪」を思わせる(中身は別に似ていないと思うが、流れだけ)。だから、もう1回くらいすごい回がある(七つの大罪の入院回良かったですね…)と思ったのだが…でも5話があるからいいか。SAKUGA寄りなのからTVアニメ~なキッチュなやつまで、アクション演出/表現のごった煮な傑作回。これこそがTVアニメのアクション回だ。

シーズン&1年の総括

画一的な基準で推し量られた「真っ当なアニメ」に「〈洗練された粗暴〉のようなアニメ」が虐げられ追い詰められている…近年ずっとそんなイメージでこのアニメ界を観察していたが、2018年ラストシーズンに「ユリシーズ」などを迎えつつ気付いた。「〈洗練された粗暴〉アニメ、案外あるじゃん」。

上に並べ立てた決して少なくない数のアニメの殆どに〈洗練された粗暴〉が見え隠れするのは言わずもがな。書かなかったアニメでは「ちおちゃんの通学路」(名前は出してる)なんかも結構そうだし。上半期に感じていた苦境感は、下半期に一気に希望に転じたといえよう。結局こっちがアニメを諦めかけても、アニメがこっちを離してくれないものなのだ。来年は変な切迫感に苛まれる事なく「闊達に見ていく」ということと、「見ることは闘い」ということとを両立させていければ。

 

あー「TO BE HEROINE」なんかも良かった。「ユリシーズ」とは全話監督コンテつながり。中国原作系だと途中「大丈夫か?」ってなったものの「軒轅剣」もなかなか…

*1:上野にはパチンコ・パチスロメーカーの本社が集中&赤青黄はパチスロの子役 チェリー/リプレイ/ベルを象徴する色

*2:これ弟に話したら「それノブナガ・ザ・フールだから」と言われた。そうなの?(自分は未見)

*3:まっつねという人のブログの山内重保に関するエントリーに山内重保演出への苦言コメントを残していたのが印象に

映画「若おかみは小学生!」私記

風呂に入らないのはアニメではないので温泉旅館が舞台という時点で一応ある程度アニメであろうという事はとりあえず約束されているのだが、見始めてすぐ「よく考えれば(特にデフォルメ寄りのキャラの)日常芝居をしっかり作画されるのそんなに好きじゃないんだよ…」という事を思い出す。それもあいまって「良く作ってあるけどこれ自分が客なアニメじゃないなー」と半ば途方に暮れつつあったのだが、グローリー・水領先生が出てくるあたりから持ち直しはじめ、主人公のキャラソン流れてネコミミコスの幼女(幽霊)がサブリミナル気味に突如挿入される(おっこと水領先生の会話中に唐突にカットインされるので本当にビビる)買物シーンあたりから「ここは俺の領分(アニメ)だぜ」と幾分なってくる。

結局自分が「THE 作画」を許せるのはTVアニメのOPEDアニメーション含めPV・MV的もの(非ライブシーン)と組み合わされた時だけけなのかもしれないと思わされた。あと破壊。日常芝居ちゃんと作画されるの嫌いだなと考えた時に「でもWHITE ALBUMのマナが机ぶちまけるシーンとかは好きだな…」とか思ったがあれは破壊シーンなんだ(一方、非日常の身振りがベースにある作品で良作画で物がぶっ壊されても破壊に思えないシーンというのもある)。

面白い「非」の咲き乱れる作品を…(『LOST SONG』他)

LOST SONG』(1~3話)

1話冒頭1分間の「これは完全に自分が好きなタイプのアレなファンタジーアニメなのでは…」感は『聖戦ケルベロス 竜刻のファタリテ』以来のものがあったが、そこからの進み行きはだいぶ異なる。

ゲーム屋ファンタジーアニメの生きる道は3つ(と書いている途中でこれゲーム原作じゃないなと気づいてしまったがまぁMAGES.はゲーム屋みたいなものだろう)。すなわち、『イクシオンサーガDT』『シャイニング・ハーツ』『神撃のバハムート』…そう考えてみると*1、このアニメはどの方向にも寄り添わずに生きる道を模索しようとしているように見える。ファンタジーシンフォギアがやりたかったのかとも思ってしまうが、その割には普通な部分が普通過ぎる…が、地形を活かしたジャンプ蹴りなど、単に普通過ぎるで片付けるにはあまりにもトンチキな細部が煌めいているのも確かだ。

鈴木このみが唄うならヒロインはこんなに幼くなくていい気がするし、ケバい吟遊詩人はこんなにケバくなくてもいい(なんかマジカルハロウィンのキャラに似ている気がする)と思うし、「投げた爆弾がリンゴに…」みたいな場面転換する必要もない気がするし…この作品は数々の「そうじゃなくても…」=「なんでそうなの?」で彩られている。そんな作品を見守る事は、時に「それしかない」という必然に安住した作品を見守よりも刺激的な体験となる。

非の打ち所がない作品より面白い「非」が咲き乱れる作品を!

と嘗て書いたのは中原昌也*2。様々な「非」が折り重なり、インチキ臭いバランスで何かが築き上がっていく…のか?今後も見逃せない。

 

ラストピリオド』(1~4話)

毎回同じように飛び出てくる依頼・1話で出てきて溶け込んだキャラの色違いが2話で出てきてこいつも並んで溶け込む…など、魅力的なフォームをたくさん持っている分、こんな感じでネタに走らなくてもなーと思ってしまう。

ネタ的な部分に関しては、原作キャラデザにBLADEに近いものがあるだけに、どうしても比較対象として『まかでみ・WAっしょい!』が立ち上って来てしまい、あの攻め方に比べると…となってしまう。

4話、冷静に考えてひぐらしキャラが出てくることより、菊地美香ヒロインがいることの方が凄いんだよ。

*1:聖戦ケルベロス 竜刻のファタリテイクシオンサーガDTの道を歩みそうで実は全然違った意欲作

*2:著書『エーガ海に捧ぐ』の、映画『メメント』に対しての言。面白い「非」が咲き乱れる映画の好例として挙げられているのは『ワイルドシングス

どうやら今年もテレビアニメで〈アクションシーン〉を見ることはまだ可能であるようだ(『キューティーハニー ユニバース』他)

キューティーハニー ユニバース」(1話,2話)

リブート作品という事で制限される部分、無茶ができる部分があると思うのだが、無茶ができる部分をちゃんと無茶している。1話戦闘シーンの時間感覚など完全にぶっ飛んでいて、絵柄だけではない部分でサイケデリック

単なる隔離空間ではない特異な空間で敵と戦う事、そこから導き出されるワンダーな決まり手を画面で描出した2話のクライマックス戦闘は、「このアニメのアクションの規則」をきっちり提示している。切り裂いた空間が切り裂かれたまま残っている所などもいい。横山彰利監督は昨年コンテを担当していた「異世界はスマートフォンとともに」3話も素晴らしかった。昨年は(「銀の墓守り」と合わせて)「異世界はスマートフォンとともに」3話に「どうやらテレビアニメで〈アクションシーン〉を見ることがまだ可能であるらしい」と救われた部分があったが、「どうやら今年もテレビアニメで〈アクションシーン〉を見ることはまだ可能であるようだ」と、春シーズンになって同スタッフに分からされる事になった。

2話、「水」流のような空間で戦っている所の回想からの現在への場面転換という事で、ボトルの炭酸「水」のアップから現在へ場面転換…というのがあるのだが。こういう「上手いがまぁ(映像に関わる人間なら)これくらいはやるだろう」という所をわざわざレビューのようなもので褒めるべきかどうかいつも悩ましい。こんな所をわざわざ褒めると失礼に値するのでは?という意味で。

ウマ娘プリティーダービー」(1~4話)

変わった事は何もやっていないように見えて、なぜか気持ちよく見れてしまう。走るというのは歌ったり踊ったり戦ったりに比べてシンプルな運動の反復で、勝ち負けもはっきりしている。そういうものを改めて見守ってみることの気持ちよさがあるのか。競技の試合そのものがシンプルなのが分かっていると、その外側で勿体つけた事をやってしまいそうだが、展開にそういう勿体つけた部分もなく、爽やか。4話、トレーナーを4人並んで蹴り飛ばす所の勢い、良い。

ハイスクールD×D HERO」(1話)

CMで下準備がされていたおかげで「歌…?」というセリフで「まさか…」となれる。よりもいの後にまで流しまくった甲斐があったというもの(TV視聴者にしか関係ないが)。

それはともかく、分かるような分からないような人物が突然現れて、空をとんでいるもの(竜)を指差して何かを言い、すぐ去っていくのが格好良かった。

「何かに〈ついて〉」考えるという事が全て「違う」のかもしれない(ノート201802#1)

ポプテピピックでパロディとはなんだろうという(パロディと一口にいってもいろんなタイプがあるよなあ…そもそもそれって「パロディ」なのか?というような)方向に考えるというのならいいが、パロディという概念でポプテピピックを考えるというのは何か順番が逆ではないかと思ってしまう。何かを考えるために作品があるのであって、作品を何かで考えるというのはどうなのだろう。作品「へ」向かうベクトル…作品を楽しむことが目的地であるというのは違うのではないか。「作品に〈ついて〉」考えるということが、もとより、「何かに〈ついて〉」考えるという事が全て「違う」のかもしれない。

ノート201801#4 語りかけるように書かれたもの

「語りかけるように書かれている」と思える小説が好きなのだが、自分の中には家族や友人が実際に語るような「生の語り」だけでなく、特撮・アニメのようなある種「大仰な語り」も息づいていて、だからこそ流れるようなリズム感とは遠いつっかかりのある文体(例えば大江の小説のような)を「語っているように書いている」ものと読めるのではないか。