泉鏡花・中心・小説の運動

泉鏡花集成 8』(ちくま文庫)を読んでいる。泉鏡花はやはり比喩の人で、例えば『木の子説法』でいえば「茸-男根 茸の柄-乳房」というのがあるのだろうが、かといってそういう比喩的なところは、あるいは比喩的なところに限らずある構図のようなものは、鏡花の小説のなかで決して「中心化」しないようになっている。
比喩に限らず泉鏡花の小説は「中心」のようなものが見出されかけた瞬間畳み掛けるように終わることが多い気がして、それは「中心」が発見されてしまった瞬間「小説」という運動は運動をやめるということに自覚的であるかのようでもある。

田中小実昌『ないものの存在』に引用されていた三木清『哲学入門』の断片

行為は運動である。しかしそれは水が流れるとか風が吹くとかという運動と同じに考えることはできぬ。それらの運動は客観的に捉え得るものであるが、行為は、それをどこまでも客観的に見てゆく限り、行為の意味がなくなってしまう。行為は単に客観的に捉え得ぬ主体的意味をもっている。行為の対象であるもの即ち客体は、私が何を為すにしても、つねに既にそこにある。私が今この手帳を取ろうとする、そのときそれは既にそこにある。かように客体はつねに「既に」という性格を担っている。客体の担うこの過去性は、普通にいう過去と同じでない。この手帳は現にそこにあるのであり、現在そこにあるものをも「既に」そこにあるものとするのが行為の主体的立場である。また未来に属するものも、見られたもの、考えられたもの、知られたもの即ち一般に客体としては、既にそこにあるということができる。このようにして客体はすべて或る根源的な過去性を担い、いわゆる過去現在未来に属する一切を既にそこにあるものとしてこれに対するのが主体である。主体はいかにしても既にそこにあるとはいい得ぬものであり、真の現在である。この現在は、過去現在未来と区別される時間の秩序における現在でなく、それを超えた全く異る秩序のものである。この現在においてあることによって、過去も未来も現在的になる。過去や未来が我々に働きかけるというのも、この現在においてである。それは過去現在未来が同時存在的にそこにおいてある現在である。行為は既にそこにあるといい得るものでなく、既にそこにあるのは為されたものであって為すものではない。行為はつねに現在から、普通にいう現在とは秩序を異にする現在から起るのである。行為が主体的なものであるというのはそのことである。かくして行為は過去をも未来をも現在に媒介する、そこに行為の歴史性があるのであって、我々のすべての行為は歴史的である。
(三木清『哲学入門』)

2016年のテレビアニメ傑作回を振り返る

鬼斬』 第3話 「博多炎上」

何がシン・ゴジラだ、こっちは全長570mだぞ。立ち向かう対策本部が行き着いた作戦は、限られた時間の中で襲来怪獣の性質を的確に分析したうえで立案されたことにおいてヤシオリ作戦に勝るとも劣らない。宙吊りにされたワインボトルに(で)乾杯。「有効物質の経口投与」という意味ではシン・ゴジラと同じ。
ロボットアニメパロディ回(第12話「気焔万丈」)も秀逸で、特撮パロをやってもロボアニメパロをやっても結局鬼斬が優勝という2016年の現実。「OPアニメーションなるもの」のおよそ全てが詰め込まれた完璧なOPアニメーション(&曲)もあいまって、今年の「作品賞」というのを選ぶならぶっちぎりでこの『鬼斬』だろう。

ラクエンロジック』 第4話 「自由か束縛か」

「遮るものの」と「くぐり抜ける/ほどくもの」と置かれていく言葉とが絶え間なく交差して生み出される運動=アニメーション。
これついては前に書いたのだけではいささか心残りなのでもう一度まとめて何か書こうと思ったけど、結局年内には書かなかったね…。こんなにも凄いのにほとんど話題になってなくて(1〜3話も結構凄いのに…)「分かっちゃいたけど、世界のアニメジャーナリズムは"死んで"るんだよねェ…」ってなった。「今年作られた」「アニメーションで」と絞らずとも、今年見た映像作品の中でベスト。作品総体として見ても8話まではやっぱり凄いと思うんだけどなぁ。7話の入浴シーンは今年のベストオブアニメ入浴シーンだろうし(『アンジュ・ヴィエルジュ』は入浴"シーン"とかいう問題でもないので)。

この素晴らしい世界に祝福を!』 第4話「この強敵に爆裂魔法を!」

「こちら」「向こう」…距離と反復のドラマ。これは作品自体が放っといても割とみんな面白いって言ってるやつなので、改めてあんまり言うことを思いつかない(逆になんでこれゾンとかはダメなの?って訊きたくなる)。作品を通してのコメントになってしまうけど、エロい事との距離感が絶妙というのはあると思います。

アンジュ・ヴィエルジュ』 第10話「零れた想い」

"「特別訓練はこれにて終了である!」""「"状況"を開始する!」"
世界=浴場から締め出されていた姉妹の挿話が挿話である事を止め、全ては湯けむりへ(弾丸は湯の中へ)と融解する…。(今年じゃないけど)『Z/X IGNITION』『ラクエンロジック』そしてこの『アンジュ・ヴィエルジュ』…TCG世界観(=非プレイヤードラマ)アニメに駄作なし。いいね?

※追記(ツイート引用)


Bloodivores』 第4話「犠牲」

なかなか人の姿が現れないファーストシークエンスにおいてはじめて現れるそれは、ドアの隙間から差し出される破片に映し出されたものだった…。美しいシークエンスから始まったエピソードが、やがてこの作品のトレードマークたる鈍くさくて生命力のある(鉄パイプが支えきれなくなって反動で吹っ飛ぶまでの流れなど)アクションへと流れ込む。4〜5話の1個のグレネードの行方を巡ってああいう風に見せていくのとか、「そう、これなんだよ!」という感じでほんとに凄い。
そして(この回のラストのホテルのシーンとか)作品を通してひたすら堆積していく、話や主題の根幹に関わっているのか単に瞬間的にエモくしたいだけなのか、とにかく何に機能させるつもりなのか皆目検討がつかないが故に予定調和的な機能を超越してしまっている(ように見える)無償のムーブメントの数々。これを前に、俺(視聴者)たちはどうすればいいんだ…。活路は己で切り拓け。「見る事は冒険だよ」その事を改めて教えてくれたBloodivoresもといハオライナーズに感謝。

まとめ

その他『霊剣山』1話、『CHAETING CRAFT』6話なども結構凄かった。
こうしてみると今年は4話が凄いアニメが多い年だったのだな。

作品を「問い」に変えずに「ここ」に踏みとどまること


作品について、本当は「"ここ"(ある具体的な、画面・音・言葉の連なり/広がり)が良かった」というだけの感想がもっと言われていいのだといつも思う。しかし「"ここ"が良かった」というだけの感想は、単にそれだけでは、言表の資格を持たず、「ここ」が「どう」「なぜ」良かったかにまで早急に踏み込まなければならないと多くの人は思い込んで(思い込まされて)いる。さらに言えば、「"ここ"が良かった」というだけの感想より、「どう」「なぜ」良かったにまで踏み込んでいる感想の方がある種の「重み」を持つと強く思ってすらいる。
結果、「どう」「なぜ」に応える為に作品という具体的な連なり/広がりを収まりのいい構図=「問い」の形に配列変換していくだけの行為が横行してしまう事になる。
「ここ」に踏みとどまり、「ここ」を掴むことに向き合った結果の混濁した苦闘の記録は、作品を整理し「なぜ」「どう」にきっちり応えたクリアな言説よりも重みを持つのではないか。
「どう」「なぜ」に踏み込まず(作品を「問い」に変換せず)、「ここ」(ある具体的な、画面・音・言葉の連なり/広がり)に何があったのかを掴む地点に踏みとどまること。確固たる足場は期待出来そうもない。作品をめぐる全ての「問い」には「さあ?」と応え続けなければならないし、他人に作品を通して感じた事をクリアに伝える事も諦めた方が良さそうだ。
具体性のある事が何も言えなくなってしまうような気もするのだが、作品にある画面・音・言葉の連なり/広がりが「在った」ということを確かに指し示すことは、それだけでひとつの具体性なのではないかと思う。むしろ作品を「どう」「なぜ」という問いに応えるために、体のいい構図に配列変換する態度こそひとつの抽象性に他ならないのではないか。しかし「在った」(在る)とは何なのだ?

クラーナハ・デュシャン・ベケット


ちょっと前にクラーナハ展(これまで問答無用で「クラナッハ」だと信じていたのにこれからはどっちの呼称を使えばいいのだろうか)を見て来たら、デュシャンのスケッチ(?)が2枚ほど展示されていた。デュシャンについてはちくま文庫のインタビュー本を一冊読んだ(良かった)だけで、これにはクラーナハについて何か言ってるような所はなかったので、まさかデュシャンの何かがここで展示されているとは思わなかったのだった。
展示を通して感じた事だがクラーナハはある種の「軽さ」(「軽薄さ」というと侮蔑的なニュアンスが入ってしまうような気がするのでこう言っておく)によってモチーフを決定しているのではと思える所が多分にあり、そういう所がデュシャン(や今回同じ様に展示のあったピカソ)のような、同じくある種の「軽さ」がモチベーションになっている(ように思える)創作者には響く部分があったのではないか…と勝手に思う。
同じ頃ちょうどベケット『モロイ』を読み始めていたのだが、そこに凄い「何か」があるようでしかし単にふざけているだけなのでは…という風なスレスレなテキストの連発で素直に格好いいと思ってしまった(有名なのはおしゃぶり用の石をしゃぶるくだり)。20世紀初頭〜中盤に尖ったものを創ってた人たちの作品は、時に単にふざけているようにしか見えなくもないような、そんなスレスレの事に極めて真剣な面持ちで取り組んでいるような所があって素敵だ。そこには異様な律儀さとある種の軽さが共在している。

面白いと思わなくてもいい「自由」「隙間」「あそび」に向かって


保坂和志が"「面白い」という事がたいして重要な事だとは思わない"という風な事を書いている文章があるらしいのだが、あるムックにしか入ってない文章らしく、まだ読めていない。
それはさておき、ある種の「面白い」作品に"これは「面白い」というより単に「面白いと思わなくてもいい自由がない」だけではないのか"と感じてしまう事は多い。
あるハリウッド映画が日本のテレビアニメに比べてよく出来ているという風な言い方がされる時の「よく出来かた」「面白さ」はしばしばこれに近い。もちろんこの手の言い方がされるからといって日本のテレビアニメ全てがこの種の「面白いと思わなくてもいい自由がない」だけの「面白さ」と無縁という訳でもない。
「面白いと思わなくてもいい自由がない」というのは、もう少し具体的に言えば、作品の諸要素が「受け手を惹きつける=求心力」のような狭義の「面白さ」の為に組織されていて*1、そういう狭義の面白さとは無縁の「隙間」「あそび」が無いという事だ。
実際問題、ほとんどの(狭義の)「面白さ」を目指す創作論は単に「つまらなさから逃げる方法」を説いているだけで、すなわち「面白くないと思われない方法」程度しか語っていない。
強迫観念的につまらなさを回避しようとする構築によって面白さを得ようとする作品からは、やはり強迫観念的な面白さしか与えられず、自分と作品がなんらかの関係を取り結んでいるという気がしない。面白くしかないものを面白いと思っても「面白いと思っている」という事にはならないのではないか。
「面白くないと思ってもいい隙間・あそび」が残されている作品…或いはその「隙間・あそび」そのものを面白いと思う事が出来て、(「思う事が出来て」というより「"信じる"事が出来て」と言ったほうがいいかもしれない)はじめて、自分が作品にポジティブな感情を抱いているという事になると思う。


「面白さ」が「(半ば強迫的な)求心力がある」とかその程度の事しか意味しないのであるならば、自分にとってはそんな意味で作品が「面白い」事よりも作品に「何か」がある事のほうが重要で、つまらなくても「何か」があれば「狭い意味で面白い」だけよりもずっといい。「何か」って何だ?と問われれば、「知るか」としか言いようが無いのであるが。

*1:そのような組織の仕方のなかにあの「展開」と呼ばれるものがあったりする訳だが、自分は作品に「展開」なるものが必須だとも思わない

年に一度はこういう事があるからテレビアニメを見ない訳にはいかない/「遮るもの」が演じる運動―『ラクエンロジック』4話「自由か束縛か」


1話も色々カッ飛ばしていて凄かった『ラクエンロジック』だが、4話がもうほんとにいくらなんでも凄すぎて唖然とするしかなく、年に一度はこういう事があるからテレビアニメを見ないわけにはいかないなと思える回だった。事ある毎にその存在を思い出しては感慨に耽る事になる回というのが自分にはいくつかあるが、この回もたぶんそういう回になるだろう。
特に凄かったAパートはどこが凄いかと言われてもすべての流れが凄過ぎるので説明しようとしても単に映ってたことを時系列順に並べて言葉で再現していく他はないような気がして、ツイッターには

"アジの干物越しの叱咤からクロエが後ろ手組んでる所inエレベーターに飛んで、エレベーター内俯瞰で並べ立てられる使者の名、アテナがヴィーナスの口塞いで、塞いでる腕を割って出て行くクロエ、閉じるエレベーターの動きと並行右パンでスイッチに寄りかかるように立ってるユカリの顔。いやはや。"

みたいに書いた。これは朝食以降の流れの要約で、その前部分のゴールテープに見立てたダッシュ〜現場での会話〜飛んでいったのと逆方向に走って「待ってろ9.8!」なんかも凄い。走る方向、数字に置き換えられた呼び名…いやはや。
だいたいエレベーター俯瞰であの面々が並んでて、折笠富美子小見川千明が幻獣固有名詞羅列するとかそれだけでカッコ良過ぎるなとも。


無粋を覚悟でAパートの流れを貫くポイントのようなものを抽出するなら"「遮るもの」によって演じられる運動"という事だろう。Aパートにはゴールテープに見立てられクロエの疾走を生み出す「KEEP OUT」のバリケードテープ、クロエがタマキの追求からそれで隠れようとするアジの干物、ヴィーナスの口を塞ぐアテナの手…といった「遮るもの」が度々見い出される。
バリケードテープは本来「遮るもの」であったものがその用途を越えてクロエの疾走の目標となり、対照的にアジの干物は本来は食物であるものが「遮るもの」として扱われる。ヴィーナスの口を塞ぐアテナの手は、ヴィーナスが言いかけた言葉を遮るものとして会話の流れの中で身体によってその場に引かれた生々しい線でありつつ、結果的にエレベーターの出口へと向かうクロエの進行方向を塞いでいるという、二重の「遮るもの」となっている。
役割の移行、複数の役割の越境といった「遮るもの」の種々の様態が、Aパートの流れに「運動」を生み出している。そして、それぞれの「遮るもの」はクロエの手によってくぐられ、支えられ、軽やかにほどかれていてる。ここから「くぐること/ほどくこと-自由」「遮るもの-束縛」というサブタイトルに連関する図式を見出す事も出来るが、これは少しサブタイトルに引き摺られ過ぎかもしれない。そういった図式に拠らずとも、「遮るもの」とクロエの有り様…もとい、ロジカリスト/フォーリナーたちの有り様…を見守っているだけで、ひたすら打ちのめされる回なのであった。